愚痴を言う人は、「愚痴を言うために」いろいろ拒んでる件。
現実と「行動」・「感情」って、ふつう考えられているのと、ほんとうにアベコベなんだなァ。
なんでも「行動・感情が先、現実が後」なんだよね。
言い換えると、「現実は結果」ってこと。
なんの結果なのかって、それまでの「感情」と「行動」の結果。
で、分かれ目は、ここを認められるかどうかなんだよね。
「そうか、現実は自分の行動と感情が創っているというなら、今日から自分の行動と感情を変えてみよう」
ってなる人と、
「は?そんなわけないっしょ。誰がこんな嫌な現実を創り出すねん!」
ってなる人がいる。
んで、後者の人はあくまで「現実」の被害者なのね。
「この状況さえ変われば…」
「こんな不幸に誰がしたんだ」
「あいつが私にこれをしなければ…」
って愚痴を言い続ける人は、
「感情と行動が先。現実は後」
っていう超シンプルな法則が見えない。
ずーーっと、「誰かが創った現実」に振り回されて生きることになる。
そりゃ苦しいよなあって思う(^O^)
で、そういうときって、「愚痴を言いたい」っいう欲求が出てるときなんだよね。
なんでって、「愚痴を言える」と、悲劇のヒーローとかヒロインになれるから。
んで、その感情が、これまた見事に現実化するんだよね。
愚痴を言えるような上司に出会ったり、相変わらず夫のデリカシーがなかったり、妻の機嫌が悪かったり。
まさに「思い通り」だよね。
つまり、自分がジャッジした通りになってる。
そういうときって、面白いことに「欲しいものをあえて遠ざけてる」ことが、ほとんど。
「あーゆーのはカッコ悪いから」
「あのやり方は、ずるいから」
「あれは本質的じゃないから」
というようなもっともらしい理由で、内心で欲しいものを拒んじゃうんだよね。
で、そんときってカラダがすごい抵抗してんの。
呼吸止まってるの。
だから、そこにさえ気づけばいいんだよね。
「いま、拒んでるもの」を「いま、認めちゃう」
そんだけで、ボディがクリアになっていくよ。
んで、クリアなボディが、クリアな現実を創っていくんだ。
愚痴が多ければ多いほど、ハラの力は失われてしまう。
逆にハラの力がついてくるってことは、それだけ現実の被害者って立場から、抜け出せたってことなんだよね。
その意味では 、愚痴を言いたくなったときがチャンス!
「この現実は、自分のどんな感情や行動の結果なんだろう」
と捉えることができれば、そこからさらにフリーになっていけるよ!!