「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

エネルギーはいつも「理不尽さ」の中にしかない。

 

人間というのは、理不尽なことが嫌いなものです。

 

 

「いきなり見知らぬ人から怒鳴られる」

 

「メニューに5,000円って書いてあったのに、会計で50,000円だった」

 

「プロフィールにFカップって書いてあるのに、あきらかに実物はBカップ」

 

 

そんな理不尽な出来事があったら、腹が立ったりしますよね。

 

 

つまりどこかで「理不尽」なのはおかしいこと、間違ってること、って考えるわけです。

 

だから理不尽を嫌う。

 

 

けれども、ぼくらの存在自体が、かなり理不尽なんですね、そもそも。

 

 

うちの下の子なんて、理不尽のカタマリです。

 

 

パパ「ごはん食べる?」

 

娘「食べる」

 

パパ「じゃー、すわってー」

 

娘「食べない!」

 

パパ「このクソガキ…」

 

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娘「(車の)うしろ、すわゆ!(座る)」

 

パパ「じゃぁ、チャイルドシート移すね」

 

~チャイルドシート付け替え~

 

娘「まえ、のゆ!(乗る)」

 

パパ「このクソガキ…」

 

 

お子さんいる人はわかると思いますが、こんなんばっかりなわけですよ。

 

 

もちろん、子ども自身は「おかしなこと言ってる」とは思ってない。

 

 

「さっきは、後ろに乗りたかった。でもパパがモタモタしているうちに気持ちが変わった。それで何が悪いの?」

 

 

という感じです。

 

 

どんだけ自己肯定すんねん、とパパは思うわけです。

 

 

 

けれども、ぼくらのエネルギーじたいが、もともとそういうものなんですね。

 

 

刻一刻と変わっている。

 

 

「さっき」と「これから」に一貫性がない。

 

 

「いま、ここ」でそのまんま。

 

 

そこに「論理」なんてないんです。

 

 

だから、理不尽なのが当たり前なんです。

 

 

 

だからエネルギーのまんまの「アホ」であり「マヌケ」であれば、理不尽を受け入れることができるんですね。

 

 

「まー、そんなこともあるよねー」

 

「こっちも間違えるしねー」

 

「仕方ないよねー」

 

 

って。

 

 

「正しい」とか「正しくない」っていう観点を捨てちゃえば、「理不尽」なできごとを「理不尽」と思わなくなる。

 

 

 

けれども自分のなかに「確固たる論理」とか「正しさ」があればあるほど、「こうあるべき」が強くなり、「理不尽なことは許せない!」ってなっちゃう。

 

 

 

ぼくなど、まさにこのタイプなんですよね。

 

 

間違ってることに、なんかすごい抵抗がある。

 

なるべく正しく話したいと思う。

 

理不尽なことには徹底対抗。

 

 

でもだんだん、それが苦しくなってきてね。

 

「正しさ」を保つことにエネルギーを費やすのって、かなりエネルギーをロスするんですよね。

 

 

だから、なるべく「正しさ」じゃなくて「愉しさ」でいきたいんだけど、ついつい「マジメに」「ただしく」「考えちゃう」よね。

 

 

まー、いまのおぜっきーは、そんなもんですよ。

 

 

だって、アホになるの怖いもん。

 

「頭いい」って言われたら嬉しいもん。

 

まちがえたら、なんか恥ずかしいもん。

 

 

 

でもね、やっぱり「理不尽」を受け入れることをやっていきたいんだよね。

 

 

それはさ、「じぶん」というMAXに理不尽な存在を、肯定したいからなんだよね。

 

 

そうそう、そもそも自分じしんが理不尽な存在だから、理不尽に抵抗するってことは、自分を否定するってことになっちゃうんだよね。

 

 

だから、おぜっきーは年々アホになっていくからね。

 

 

ボケたって思われたらどうしよう。

 

 

まぁ、それでいっかwww