「できる人」から「できない人」に戻っていくと、愉しくなる。
「できる人」ほど、落とし穴にハマる。って話をします。
ぼくはけっこう、「できる人」として生きてきました。
小学生のころから、お勉強の得意な優等生。
「いいこと」をして褒められ、「正しいこと」をして表彰され、「間違っていること」を糾弾し、称賛される。
もちろん褒められてばかりではなかったけれど、基本は「いい子」「問題のない生徒」。
もしかしたら、この記事を読んでるあなたも、そんな優等生だったかもしれない。
「できる人」はオトナの論理が理解できる。
「できる人」は、役割を演じ分けることが、できる。
「できる人」は、やりたくないことも、できる。
そういう優秀さを持っています。
だから「世間」においては、褒められることが多い。
けれども、その能力があるがゆえに、自分を殺してしまう。
個性をなくしてしまう。
愉しいことを忘れてしまう。
一方、オトナの論理が理解できない人は、「わかんなーい」とあきらめてしまえる。
合わない役割を演じさせられそうになると「できなーい」と投げちゃう。
やりたくないことは「やりたくなーい」を言えちゃう。
こういう人種は、「できる人」から見て、もっとも許せない人種なのですwww
ここに、「できる人」の落とし穴がある。
「できる人」はアタマもいいし、論理も組めるから、「できない人」を論破することができる。
すると、「できない人」を論破したあとは、「やはり自分は正しいのだ」を強化していく。
すると、どんどん「愉しさ」を失っていくんですね。
愉しさのメインエネルギーは
「知らなーい」
「わかんなーい」
「でも、たのしーっ」
っていう感じです。
そのあり方は、いくら正しさで論破できるんです。
でもそれって、自分のエネルギーさえも殺してしまうんですね。
ぼくも、いろいろ考えて、計画を立て、戦略をつくり、がんばってきました。
けれど、苦しさがなくならないどころか、むしろどんどんエネルギーが枯渇してくるんです。
表面的にはうまくいっているように見えるのに、「なんか違うな」っていう感じがずっと付きまとっている。
不足感にさいなまれる。
それって「できる人」でい続けようとしたからなんですね。
ぼくもなかなかアホにはなりきれないけどね、「できる人」を捨てていく過程で、ずいぶん楽になったと思うわけです。
これからさらに、愉しさを追求していくゾ!