子どもの泣き声が<歌>になるとき。
3歳の次女が転んで大泣きして。
それにつられて5歳の長女も泣きだして。
以前だったら、苦しい気持ちになっていたかもしれない。
悲しい気持ちになっていたかもしれない。
それが今夜は、不思議と共鳴するハーモニーとして聞こえてきて。
子どもの泣き声を聞けるなんて、なんて幸せなんだろうと美しくかなでられる<メロディー>を聞いていたんだ。
じぶんが「よわい」うちは、ーつまりこころとからだの詰まりが多いうちはー子どもを「よわい」ものとして観ている。
だから泣かせちゃいけない。
泣くのはかわいそうなこと。
泣かせるのはひどいこと。
っていうふうに感じてしまう。
そこから、こころとからだが透明<クリア>になってくるとーつまり「つよく」なってくるとー子どもも「つよい」ものだとして扱うようになる。
そうやって、じぶんのこころとからだを「そうじ」していったら、だんだんと子どもの泣き声が<歌>のように聴こえてきたんだよね。
いつだって、<種>はじぶんの中にある。
その<種>をよーく見つめてあげると、だんだんなくなっていく。
そうしたら、
「うざい」と感じていたものが愛だったと気づき、
「きらい」と思っていたものが大切なものだと分かり、
「くるしい」と感じていたことが「よろこび」になる。
そうして「ああ、ぜーーーんぶ、そのままでよかったんだ」っていうポイントにたどりついたとき、「いま、ここにある」ということの美しさに感動するんだよね。
「なにも変えなくていい」
これをハラの底まで納得すること。
これがハラ生き道の極意なんだな。