目の前の人に素直に謝れないなら、自分のなかの「じぶん」に謝ればいい。
ほとんどのいさかいは、こちらが心から反省して、「謝る」という行為で完結する。
「謝った」ら、「誤った」ことは、ゆるされるのだ。
「私が悪かった」
心から謝罪するとき、鏡としての他人が「私も悪かった」と謝ってくれる。
だからこそ、心から「ごめんね」と伝えることが大切になってくる。
けれども、ぼくらは謝れない。
「誤る」ことは容易いが、どうしても素直に「謝る」ことができない。
夢の中では言えても、現実ではなかなか言えないのが人間だと思う。
そんなとき、目の前の人に謝るのではなく、「じぶん自身」に謝るのだと思うと、かなり気がラクになったりする。
そう、「他人」と言えども、「自分のなかの何か」を表現した存在にすぎない。
「この宇宙に他人なし。ただ、自分ひとりだけがいる」
これがハラ生き道の基本的な考え方だ。
だから、「謝る」という行為は、いつでも自分自身に向けられていると考えていい。
たとえば、ケンカになり相手が非常に感情的になって、論理的にはムチャクチャなことを言ってくるとする。
これは、謝るにはあまりにもおかしい。
どう考えても相手が間違っている。
そう思えるときに「目の前の人に謝る」のは、相当に厳しいことだろう。
けれども、その「目の前の人」は「じぶん」なのだ。
そう捉えなおしたとき、
「ごめんね、もっと感情を表現したいよね」
とじぶん自身に謝ることになる。
そう、じぶん自身が感情を押し殺してしまい、感情を丁寧に感じるということをしていないから、目の前の人がそれを見せてくれているのだ。
「おお、こんな感情を抱えていたのか・・・」
と抑えていた感情を認め、ゆるしていく。
すると、怒りの底にあった「さみしさ」や「かなしさ」にアクセスすることができる。
「そっか、あれだけ感情的になるほどに悲しい思いをさせたよね。ごめんね」
とまた、自分をゆるしていく。
それから、
「また帰りがこんなに遅いのね!わたしと仕事、どっちが大事なの?!」
こんなふうに感情的に詰め寄られるとつい、
「家族のために働いてるんだろうが!」と怒りたくもなるものだ。
けれども、そんな奥さんのセリフも「じぶん」が言っていると捉えてみると、
「あなたは優秀だから、もっと早く仕事も終わらせて家庭も大切にできる器も能力もあるはずよ!」
というふうに聞こえてくる。
そう、本来、「ごめんね」という言葉は、じぶんの「可能性」に向けて放たれる言葉なのだ。
すべての謝罪要求は「あなたはもっとできる!!」というふうに捉えなおせばいい。
「ごめんね」という言葉は、じぶんの可能性をゆるす言葉だ。
「ごめんね」は、じぶんを責めているのを、ひとつ減らす行為だ。
「ごめんね」は、じぶんの器をゆるめて広げる作業だ。
「俺はダメなんだ」と自己否定を抱える人ほど、「おれは悪くない!」と正しさを主張してしまう。
だから正しさばかりを主張している人がいたら、それは自分をゆるせずに苦しんでいる人なのだと見ればいい。
そして、その人こそが「いまの自分」なのだ。
だからこそ、そんな「いまの自分」に対して、心から「ごめんね」を伝えていく。
責める系の「ごめんなさい」をやめればやめるほど、ゆるす系の「ごめんなさい」を言えるようになっていく。
それこそが、じぶん自身をゆるしていくプロセスなのだ。
昨日クルマのなかで2時間夫婦ゲンカをしたぼくが、そんなことを語ってみました(笑)