ハラ生き道ができるまで その11 ~夫婦のスレ違い~
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2011年4月25日、開業。
千葉県で徹底的に整体や経営を学んだこともあり、院の経営はすぐに軌道に乗った。
開業から数日後にチラシを出したときは電話が鳴りやまず、赤ペンでメモしていた「予約帳」は、どんどん真っ赤に染まっていった。
そして開業2か月目で月商90万、開業3か月目で100万円を超え、そこから月商100万円をくだることはなかった。
当時は妊婦の葉月さんが受付をやってくれていた。
ぼくは施術に専念。
そういうスタイルだった。
そうやってほぼ24時間一緒にいても、なのか、一緒にいるから、なのか、お互いがスレ違うことが増えていった。
元来が心配性のぼくとしては、「もっと仕事がしたい。仕事をしなきゃ。」
見知らぬ土地で不安を抱える葉月は「もっと気持ちを分かってほしい。」
そうこうするうちに、9月に出産を控え、葉月は8月初旬には実家の茨城に戻った。
そして2011年9月1日。長女誕生。
夜中の3時ごろだった。
枕元の携帯がなって画像が送られてきた。
ぼくの第一の感想は「へぇーーー」
「ありがとう」でも「よくやった」でも「うれしい!」でもなかった。
「ああ、これが、おれの、子ども。そうですか・・・」
寝ぼけていたのもあったけれども、そんな感じだった。
ここでハッキリ言っておこう。
ぼくはおかしくなっていた。
成果を焦るあまりか。
自らの傷に長年フタをしていたからか。
ナイーブさをごまかして強がっていたからか。
答えは分からない。けれどもおかしかったのは事実で。
子どもの誕生を「どう喜んでいいか分からなかった」のだ。
実際に、長女に会いにいったのは9月の11日。
誕生から10日も過ぎていた。
よくそれを冷酷だとか薄情と言われるけれども、たしかにそうだと思う。
ただ当時のぼくには「子どもを溺愛する」という能力も余裕もなかった。
そんな状態だから、葉月が10月に長女を連れて帰ってきてからは、またどんどん夫婦のズレが大きくなっていった。
ケンカも増えた。
お互いに手を出すことも多かった。
ぼくは仕事仕事仕事で、朝8時から夜8時までは仕事をしていないと気が済まなかった。
そして夜8時に施術を済ませてからも、勉強やチラシ・HP作りをしていないと気が収まらなかった。
典型的なアタマ生きのワーカホリックな症状だ。
こうなると、独身時代であればまた自律神経を乱していたのだろう。
しかし結婚してからは、葉月が身代わりになるように体調不良になった。
葉月の体調が崩れると、ぼくは仕事を休んだり、子どもの面倒を見なければいけない。
今にして思えば、それが僕の「意識の解放」のために起こっていたんだと分かる。
「仕事だけじゃなく、もっと自分を愛してもいい」というハラからのメッセージだったんだと。
しかしアタマ生きバリバリの当時には、そんなことも気づくはずもなかった。
仕事中毒のぼくが感じたのは
「葉月が体調不良になって邪魔をする…」
ということ。
「じぶんの体調や感情くらい自分でコントロールしてくれよ…」と。
「言葉じゃないもの」に敏感な葉月は、そうしたぼくの感情を繊細に感じ取った。
当時、葉月がよく言っていた言葉がある。
「あなたは近くにいるのに遠い…」
言葉でしかコミュニケーションが取れなかった僕が思ったのは
「何言ってんだコイツ。そばにいるじゃないか」
そうした僕の拒絶をまた葉月は敏感に感じ取り体調を崩していく。
ぼくは思うように仕事ができずに苛立っていく。
そうして、ぼくら夫婦は、どんどん悪循環にハマっていった。
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