「分からないまま生きる」という勇気について。
ぼくらは「分かりたい」生き物だ。
「分かった」ほうがスッキリするし、ときに「分かった」ことは「勝った」気になったりする。
「分からない」は、どこか悔しくて、悲しくて、もどかしい。
だから、ぼくらは「わからない」を拒絶し、「分かった」を欲しがる。
けれども、ぼくらの「分かった」は、どこまでいっても幻想で、本当は「分からない」ことが分かっただけだったりする。
誰かの気持ちを「分かる」ということ。
悩みを「分かってもらう」ということ。
そういう幻想のなかにも愛や感動があって、それはそれで否定すべきものでもないのかもしれない。
ただ、その底辺には「分からない」が、いつでも横たわっているんだ。
ぼくらは「分かってほしい」と悩む。
「分かってくれ」と叫ぶ。
けれども「分かるよ」と言われれば、「分かるわけないだろう」とひねくれてみたりする。
「分かりたい」けど「分からない」
このもどかしさは、まるでスカートのなかのパンツが見たいけど見えないときのようなそれに似ている。
ぼくらのアタマは、この「もどかしさ」をネガティブなものだと感じる。
けれどもハラでは、もどかしさは「よろこび」に転換されている。
もどかしいのが、嬉しい。
だからこそ、「名探偵コナン」は大人気だ。
誰しも「ネタバレ」は嫌いだ。
それは、愉しみたい「もどかしさ」を一掃されてしまうからだ。
そう、「もどかしさ」には「よろこび」がある。
たとえば「人の気持ち」から「宇宙の真理」まで、ぼくらには知りたいことがたくさんある。
そして追求するうちに、「これだ!」というものを掴むことがある。
けれども、その暫定的結論には、すぐに疑問符がついてしまって。
探れば探るほど、「もっと奥」があるんだと、肩を落とすことになる。
だからぼくらは結局「分からないまま生きる」しかなくて。
それは「もどかしいまま、生きる」ということで。
だからアタマで生きると、その「もどかしさ」が耐えられない。
「分かりたい!分かってほしい!」という渇望に飲み込まれてしまう。
けれどハラなら、もどかしさを飲み込める。たのしめる。
「分からない」を「分からない」のままに、歩んでいける。
そして「分からない」人のとなりに「分からない」人が、ただ、いる。
それだけで、いいんじゃないかと、思うんだ。