誇らしさと恥ずかしさは、紙一重っていうか同じもの。
自信というのは、とってもバランスがむずかしいのです。
自信に似て非なるものとして「誇らしさ」というのがあります。
これは「プライド」のようなものです。
「わたしは素敵だ。わたしは素晴らしい。わたしはスゴイ」
のようなもの。
この「わたし」の部分が大切で、言葉は「わたし」だけれども実は内容が
「わたしの周辺」
ということがよくあるのです。
たとえば
「わたしの年収」とか「わたしの容貌」とか「わたしのカップ数」とか「わたしの身長」とか「おれの彼女のスタイル」「おれの車」「おれのライフスタイル」「おれの筋肉」とか。
そういう「じぶん周辺」のことに対する誇らしさのことを「プライド」といいます。
そして、そういう「じぶん周辺」の何かをすべて失ったときに残るものが「自信」です。
割とその区別を知らない方も多いようです。
「恥ずかしさ」という劣等感を抱える人は、その対岸の「誇らしさ」を得ようとします。
たとえば「年収さえ上がれば」とか「もっと筋肉があれば」とか「もっと頭がよければ」「もっとおっぱいが大きければ」と、
「じぶん周辺」に何かを付け足すことで「自信」が得られると勘違いしているのです。
けれども、それは「自信」ではなくて「プライド」なのです。
「恥ずかしさ」を抱える人が、「じぶん周辺」に何かを付け足して、「誇らしさ」を得たということ。
それは単に、劣等感を優越感に履き替えただけで「自信」ではないのです。
雑誌のうしろのほうにある
「このペニス増大法で自信が!」「オトコのみなぎる自信!」
みたいなのは、ぜんぶ自信の話ではないのです。
「こんなにデブだった私がヤセて自信が!」
というのも自信ではないのです。
それは、「誇らしさ」であり「プライド」であり「優越感」なのです。
ヤセて自信が付いた人は、太ればまた自信をなくします。
そして「恥ずかしい」と、じぶんに対して思う。
そして、じぶんより太っている人を見ては安心し、じぶんよりヤセている人を見ては嫉妬したりうらやんだりする。
これが財布の場合は逆ですね。
太れば優越感を持ち、やせれば劣等感を感じる。
「誇らしさ」というのは、そもそも「恥ずかしさ」を含むのです。
たとえば「おれの筋肉」に優越感を持っている。
そこで女性に「わぁ、筋肉ステキ!」と言われたら、「誇らしく」なる。
けれども「スマートな人がいいよねぇ。筋肉バカってダサいよねー」って言い合ってる集団のなかにいたら、ムキムキさんは恥ずかしくなるのです。
こういうところから抜け出さない?
という提案がハラ生き道です。
たとえば「稼げていなくて恥ずかしい」というレベルから
「稼ぐとか稼げないとかで右往左往してる状態が恥ずかしい」というとらえ方に変わるのです。
ハラ生き道という大道を歩む。
それは、とある武道家の言葉を借りれば
「天地を相手に仕事をする」
ということなのです。
天地を相手に仕事をすれば、すぐには結果が出ないこともあります。
むしろ、死ぬまでにも結果が出ないかもしれない。
しかし、その思いを継いでくれる人が現れ、何世代かを経て達成される。
それくらい超長期的なスパンのスケールの大きな夢を見ないかということです。
そのときに
「わたしの誇らしさ」とか
「わたしの恥ずかしさ」という
小さな世界の優越・劣等はどうでもよくなってしまうのです。
「優越感・劣等感」「誇らしさ・恥ずかしさ」「みじめ・プライド」
そういう二極の世界から抜け出す。
それが究極の幸せなんだと、ハラ生き道では考えるのです。
↓この会員さんを、まずは1000名にし、そのお金で「ハラ生きハウス」を運営したいのです。