「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「やりたくてやったんだろう?」を常に自分に突き付ける。

こないだ、面白い記事を見ましてね。

 

以前に、セミナーに参加してくださった方のブログなんだけど。

 

 

内容が凄絶で。

 

すっごいカンタンに内容をかいつまむと、色々あってご実家に1000万円以上も仕送りをされてたんだって。

 

すごいじゃん?

 

ご両親にも感謝されそうなもんじゃん?

 

 

それがさ、感謝されるどころか、お父さんに

 

「全部、お前が好きでやったことだろう?」

 

って言われたんだって。

 

 

で、その方はその憎しみを乗り越えて今があるみたいなんだけど、本当にすごいなーって思って。

 

 

 

で、この

 

「好きでやったことだろう?」

 

なんだけど、自分にも当てはまるなーって思って。

 

 

仕事を愉しんでやってるはずなのに、ケンカになると

 

「俺が稼いでるんだぞ!」

 

 

ケンカを終わらせるために、勝手に自分から謝ったのに

 

「いつも、俺から謝ってるのに!」

 

 

その他、

 

「忙しいのに、家事だってやってるじゃないか!」

 

「ふつうのパパよりは子どもと接する時間が多いだろう?」

 

 

などなど、やっぱりケンカになって感情的になると「ホンネ」が出やすいよね。

 

 

「あー、おれの本心ってこんなに恩着せがましいいんだー」

 

ってビックリするよね。

 

 

「いい人」を演技すればするほど、恩着せがましくなるよね、内心で。

 

 

そんなときに「やりたくてやったんだろう?」っていうフレーズを自分に突き付けるわけ。

 

 

「この行動は【やりたくてやったんだろう?】ってツッコまれても、怒らないか?」

 

って。

 

 

電車でおばあさんに席をゆずる。

 

感謝されるどころか「譲りたくて譲ったんだろう?」と言われる。

 

 

落とし物を拾って、渡してあげる。

 

感謝されるどころか「拾いたくて拾ったんだろう?」と言われる。

 

 

「今日は自分が」と、飲食代をおごる。

 

感謝されるどころか「おごりたくておごったんだろう?」と言われる。

 

 

 

そう思うと、ぼくらの行動の動機には

 

「感謝されたい」とか

 

「役に立ちたい」とか

 

「いい人と思われたい」

 

ってのが、たっっっっくさんあって。

 

 

 

ハラ生きというのは、そういう偽善行動をやめていくということでもあります。

 

 

それでこないだ、「ハラ生き道 非道徳宣言」ってのを作ってみたの。

 

【非道徳宣言】

 

不機嫌になってもいい。

迷惑かけてもいい。

ワガママ言ってもいい。
むちゃくちゃ言ってもいい。
感情をぶつけてもいい。
責任を取らなくてもいい。
ごまかしてもいい。
ウソをついてもいい。
いじわるでもいい。
嫌味を言ってもいい。
いじめてもいい。
困らせてもいい。
無視してもいい。
拗ねてもいい。
傷つけてもいい。
子どもの心を傷つけてもいい。
 
 
っていう。
 
 
こうやって「見える化」してみると、まだまだ抵抗のあるものがたくさんあるんだよね。
 
 
とくに「子どもの心を守らなきゃ!」みたいな意味わからん正義感はあったりするよね。
 
 
で、この「非道徳宣言」に対する抵抗が、生活のなかで「イライラ」となって出てくるわけです。
 
 
それは、その分だけ偽善者・いい人ぶってる、ってことなんだね。
 
 
そう思うと「やりたいことをやる」って本当にハードルが高くて。
 
 
思った以上に「クソ野郎」にならないと、ハラ生きで突き抜けないなって思ったよ。
 
 
その意味では「喜ばれたい」なんかも「余計な意識」なんだよね。
 
 
エゴは、そういうの大好きだけど。
 
「エゴのよろこび」については、また詳しく書くね。
 
 
 
 
ちょっと最近、ハラ生きが進化して深まったので、どこまでいくか分からないけど、
 
「やりたくてやったんだろう?」
 
を自分に突き付けながら、もっともっと面白い世界に突入したいと思ってるよ。