おっぱいは、なぜエロいのか。~「意味」のあそびと「無意味」のあそび~
おっぱいは、エロいのかエロくないのか。
たとえばこういう画像は一般的に「エロい」わけです。
そして、「この布の下が見たい!」と思う。
けれども「布の(もっと)下はこうなっています」と見せられると、とたんに萎えてしまう。
何が言いたいのか。
つまり「人間の感情」というのは「意味づけ」によって生まれるということです。
たとえば、おっぱいというのは、「意味」がなくなると、元々は「ただの脂肪のかたまり」なわけです。
だから「二の腕のプルプル」や「三段バラ」と”素材”は同じなわけです。
けれども、おっぱいだけは「脂肪のかたまり」のなかでも、特別視されている。
とりわけ、頂に君臨する「乳首」に関しては、ぼくらはさらに「特別な意味」を持たせている。
で「意味」をつけ始めると、「貴重」とか「貴重じゃない」とかっていう区別が出てくる。
たとえば「へそは見えてもいいけど、乳首は見えたら恥ずかしい」
とか。
で、そこから「でも、あなただけには見せてもいい」なんてドラマがはじまる。
だから「本当はぜーーーんぶ無意味なのに、勝手に意味を付けて遊んでる」のが、ぼくら人間なわけです。
「意味」というのは、おぜっきーの考えによれば「意識を味わう」です。
これは「空→色」っていうことでもあります。
無意味すぎて体感も味わうこともできないので、「味」をつけることで、体感することができる。
でね、「苦しくて仕方ない」という人は、「この意味の世界」「色の世界」に、どっぷりハマりすぎている、ってことなんです。
たとえば、この画像を見て、
「この布の下が見たい!見たい!見たい!」
って悶々とするのが「苦しみ」だよね。
でも、見たとしても実際はコレ↓
なわけです。
「無意味な世界」から観れば。
それが分かれば、変な犯罪とか犯さないよね。
お笑い芸人で、女子高生の制服だっけ?盗んで逮捕された人もいたけど、それも
「意味づけ」
だよね。
もとは、ただの布だし。
もっと言えば、ただの繊維だし。
高橋容疑者は、「意味の世界」「色の世界」から抜け出せなくなっちゃんだね。
パンツなんかも「見えそうで見えない」とエロいけれども、下着売り場に陳列してあるとエロくない。
これも
「意味づけの遊び」
ということです。
お金もそうだよね。
みんな、お金が大好きだけど、↑これ自体は、ちょっと意匠を凝らしたただの紙切れだよね。
ただの紙切れといえば、本なんかもそうだよね。
もとは紙とインクでしょう?
そこに「ことば」という「意味」を乗せて、遊ぶ。
こういうふうに「意味の世界」を「無意味の世界」から見る。
そうすると「クールさ」を保つことができるんだよね。
それは冷徹っていう意味じゃなくて「暴走しない」って意味でね。
たとえばホストやキャバクラにハマって、お金を使いまくるなんてのは「暴走」の一種かと思うよね。
「じぶんはただのお客さんである」と分かっていれば遊べるものも、「恋愛している」と勘違いしてしまうと、抜け出せなくなってしまう。
その意味で、「意味の世界」にこだわるのは、とても怖いことなの。
と言っても「無意味の世界」にいるだけでは、
「どうせすべて幻想さ」
とニヒリズムに陥ってしまう。
それを
「どうせすべては幻想だからこそ、愉しみきろう」
っていうバランス感覚が「ハラ生き」の感じかな。
ディズニーランドにハマりすぎても怖いし、「どうせビジネスだろう」とクールすぎても楽しめない。
「ファンタジーと分かりながらも、ぞんぶんに入り込む」
っていう柔軟な視点が、いちばん幸せなんじゃないかと思うんだよ。
で、実はそういう柔軟な視点って、「からだが柔らかく動かせること」で身に着くんだよね。
だからハラ生き道では、いつでもカラダにアプローチしていくんです。
そんな自由自在な視点、身につけてみない?