「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

ぜーーーんぶ、「なくなるため」にあるのかもしれない。

整体師ってのはさ、世の中に整体が不要になるように活動してるわけ。

 

「じぶんが活躍する=からだが痛い人がいっぱい」

 

だからね。

 

「整体する相手がいないよ~」=「健康な人ばかり」

 

ってわけで、そんな社会にしていきたいのが、まっとうな整体師だとぼくは思っているわけです。

 

 

ほいでね、たとえば「言葉」というのも「なくなるため」にあると思うんだよ。

 

 

はじめは、言葉がないと恋愛もできないでしょう?

 

でも、だんだんと相手と「つながり」ができてくるうちに、「言葉」が要らなくなってくる。

 

「言葉」がないと伝わらないこともあるけど、「言葉」が全体のニュアンスを伝えるのを邪魔してしまうこともある。

 

「その感じ」を全部伝えたいなら、「言葉」はないほうがいい。

 

 

だから「言葉」ってのは、はじめは必要だけど、「なくなっていく」ためにある。

 

 

それとおんなじで、ストレスをこらえるために「ハラ」ってのは必要なのね。

 

「ハラ」がないと、カラダを固めてストレスを受けることになるから、我慢しすぎると病気になったりしがち。

 

けれど、ストレスから逃げるだけでも、からだは変わっていかない。

 

 

だから「ハラ」でグッとこらえることは、とても大切。

 

 

けれども、その「ハラ」も、どうしても「力感」が残りやすいから、徐々になくなっていく。

 

「ハラがあるクリアボディ」を通じて、徐々に「ハラさえも感じないクリアボディ」にシフトしていく。

 

 

がんばってストレスを受け止める段階から、ストレスすら感じないボディへ。

 

 

そうやって、どんどんどんどん「なくなっていく」。

 

 

そして、なくなりつくした先に「これしかないんだ」ということに気づく。

 

 

それは「大元はなくならないんだ」という気づきでもあるんです。

 

 

そう、ハラさえも解き放ったとき、「じぶん」もなくなりつくす。

 

 

そうしたら、ぜんぶ自分だったと気づくんです。

 

 

その世界から、「小さな自分」を観る。

 

「なんにもなくて、すべてがある」世界から、この二極化したファンタジーの世界を観る。

 

 

そういうものの見方をすると、ボディに安心感が広がっていく。

 

 

その安心感と、ハラから湧き出る「よろこび」に従って生きていく。

 

 

それがハラ生きなんです。

center-muscle.hateblo.jp