「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「反対意見の人」=反対側がどうなっているか教えてくれる人。

裏側、見てみたくない?

 

オモテが見えてたら、ウラ側、気にならん?

 

 

正面から観たらカッコよくても、後ろから見たら「びんぼっちゃま」みたくなってるかもしれんやん?

 

 

後ろから見て美人だったら、顔も確認したくならん?

 

 

やっぱり、片面からだけじゃ、「それ全体」が見えんって、みんな知ってるのよね。

 

 

だからさ、反対側から見てみたくなるやん?

 

 

じゃー、それをどうやって達成するかっちゅうための手段が「ともだち」なんやな。

 

 

じぶんは、こっちから見て、「ともだち」に頼むのよ。

 

「ねー、そっちはどうなってる?」

 

って。

 

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これがオモテ側やん?

 

「こっちは諭吉さん書いてあるんやけどー。そっちはどや?」

 

って。

 

 

そしたら

 

「そうかー、こっちは鳳凰が描いてあるでー」

 

って教えてくれるよな。

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そんときにさ、

 

「は?諭吉だって言ってるじゃん。鳳凰とか描いてないし」

 

とか言ったらおかしいやん?

 

 

 

んでお互い

 

「諭吉だって!」

 

「鳳凰だって!」

 

「お前の目、おかしいんちゃう?なんで人が鳥に見えんねん」

 

「お前こそ、おかしいわ。どうみても鳳凰やろ。どこが諭吉や」

 

ってケンカしたら、さらに笑えるわな。

 

 

 

でも、これが人間のケンカの構造なんよな。

 

 

そりゃ「人間視点」で見れば、じぶんの意見とおしたいよね。

 

「正しいね」って言われたら嬉しいやん。

 

「間違ってる」って言われたら、なんか悲しいやん。

 

 

みんな、そうやねん。

 

だから「人間視点」で見ると、「正しい」とか「間違い」の争いになってしまうのよね。

 

 

 

それをハラ視点にシフトするってのは、

 

「反対意見=反対側から見てる人の景色」

 

っていうふうに捉えるのよ。

 

 

 

そしたら、反対意見ほどありがたいやん?

 

「おー、そっちの景色そうなっとるの?教えてくれてありがとう」

 

って。

 

 

で、これウラオモテだけじゃのうて、下とか横とかからも見れたらめっちゃオモロイやん?

 

 

「まじでそんなふうに見えてんの?」

 

「そっち側の景色、もっと教えてーや」

 

「それ、オモロイなー」

 

 

って。

 

そしたら、いろいろ立体的に見えてきて、なんか愉しいやん?

 

 

ほんで、「相手の意見」「相手の考え」変えるのバカらしくなるやん?

 

ってか「変えてしもたら反対側の景色、見れなくなるやんけ」って思うじゃん?

 

 

 

みんなで

 

「諭吉だよな」

 

「諭吉だよね」

 

「諭吉で間違いない」

 

「ゼッタイ、諭吉。」

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っていう仲間意識も愉しいかもしれんけどさ、「反対側の人」を排除するんじゃなくて、「反対の景色を教えてくれる友達」ってふうに捉えたら面白いかもって、おれは思うわけ。

 

 

そしたら「何も変えてなくていい世界」がまた広がるじゃん?

 

 

ハラ生き道では、そういう考え方を採用してるよん

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