「ありのまま」or「今のまま」最終結論。
「<ありのまま>と<今のまま>は違います。
<ありのまま>でいいというのは、努力しなくていいという意味ではありません。
<今のまま>では成長がありません。
じぶんを磨くことで、<ありのまま>になるのです」
みたいな論調を、ハラ生き道ではまったく採用してないし、個人的にもまったく信用してません。(もちろん、その説を採用する人がいてもいいよん♪)
そもそも「ありのままである」とか「ありのままじゃない」という区別をする時点で、それは「人間視点」なのです。
「ハラ視点」の大前提、「何も変えなくていい」の視点に立つということ。
そこには「努力」とか「成長」という考え方はないのです。
つい「人間視点」で見ると「努力」や「成長」が必須条件のように思えてしまうことがあります。
けれども、ハラ視点にシフトしてみると、「努力」や「成長」」という観点は、なくてもいいのです。
もちろん、「努力」や「成長」をしてもかまいません。
しかしあくまで「趣味の範疇」であって、「義務」ではないのです。
「今のままでいい」
ありのままでもない、思い込みや「心のブロック」だらけで、自分を責めてしまう。
そういう自分のままでいいということです。
変わってもいいし、変わらなくてもいい。
そう言われてもきっとエゴが
「変わりたい!変わらなきゃ!」
と叫ぶでしょう。
「どう考えても、このままじゃダメでしょう?」って。
うん、そうだね。
「ダメだって感じてもいい」
「じぶんを責める」という美しさを、充分に体感すればいい。
それを飽きたり、やめたくなったら、やめればいい。
「空の世界」には、「ダメ」なことなんてない。
「ダメ」は「駄目」
つまり「目(見方)がよくないかもね」っていう意味。
でも「見方を変えろ」「捉え方を変えなさい」っていう意味じゃない。
「変えてもいいかもね」っていう、ゆるしなんだよ。
最近のおぜっきーには「Fantasy」っていう言葉がよく浮かんでくる。
ファンタジー。
幻想。
「幻想をあそぶ」という感覚。
それは「空の世界」から観るということなんだ。
このファンタジーの「リアリティ」にハラから感動する。
「どうせファンタジー。リアリティを遊べ」
某有名テーマパークのキャラクターのなかには、人間が入ってる。
でも、オトナはそれを口に出したりしない。
ちゃんと「ファンタジー」を愉しむでしょう?
たとえ、なかにヒゲモジャのおっさんが入っていたとしても、そんなことを詮索したりはしないでしょう?
でも、ほんとうにあのキャラクターが生きてるって信じ込むのは、どこか違ってる。
「ファンタジーって知ってる。幻想だって分かってる。だけど愉しむ」
その感覚で、ぼくらはぼくらのいのちを生きることができると思うんだ。
ハラ生きの世界ってのは、そういうことさ。