「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「どうせ<ひとつ>なんだし」という視点から観ていくと。

「どうせ、ひとつ」なわけです。

 

 

だから、

 

「宇宙とつながろう」

 

「神さまに愛されよう」

 

「大いなるもの信じよう」

 

も、ぜんぶ不要なわけです。

 

 

だって「どうせ、ひとつ」なんだから。

 

 

はじめっから終わりまで、「どうせ、ひとつ」なんだから、

 

だから、

 

「統合する」必要もなくて、「調和する」必要もなくて。

 

 

 

むしろ、

 

「分離」や「不協和音」、争いや「いさかい」に、価値があるくらいで。

 

 

もちろん、その対極としての「統合」とか「調和」にも価値があるのよ?

 

 

でも、それ以前に「ぜんぶ統合されている」し、「すべてが調和」しているんだよね。

 

 

 

その視座に立ったらさ、

 

「やるべきこと」

 

なんてなくなちゃって。

 

 

救うべき地球も、変えるべき日本もなくて。

 

汚れるという概念がなければ、「地球をキレイに」という発想もなくなって。

 

 

 

人間がアタマで想像するような「楽園としての地球」みたいなのって、「ほんらいの地球」の半分の価値しか感じなくて。

 

 

なんだろう。

 

整然としたものだけに美しさを感じるのって、アタマなんだよね。

 

たとえば靴が揃えてあるとかさ。

 

 

でも、そこに無造作に脱ぎ捨てられた靴にも、実は美しさがあって。

 

 

「どうせ、ひとつ」の視座に入っていったら、そういうものまで見えてきた。

 

 

 

「この宇宙には、たったひとつの成分」しかないという世界。

 

 

そこは「なにもやるべきこと」がない世界。

 

 

=「なにをしてもいい世界」

 

 

 

それは「分離」や「不調和」「不自然」「エゴ」「汚れ」「ケガレ」「醜悪さ」などが

 

「レアだから価値あるやん!」

 

って認められ、肯定される世界。

 

 

ハラ生き道の視座というのは、そういうところに立っているのです。