あなたが思う「自由」は、「ただの自分勝手」な件。~やりたいことをやってもうまくいかない人は~
人は不自由な生き物。
ふつうに生きているだけで、どんどん型にハマっていく。
クセ、思い込み、先入観…
アタマが働けば働くほど、「自由」からは遠ざかり、「枠」に囚われていく。
ためしに、まったく意味のない「音」を適当に発し続けてみてください。
きっと、同じような音を何度も発してしまうでしょう。
日本語の50音を、まんべんなく、意味なく発声し続けることは不可能に近い。
だいたい「じぶんの言いたい音」だけを発声してしまうはずだ。
ためしに、まったく意味のないように動き続けてみてください。
きっと、同じような動きが、何度も何度も出てくるでしょう。
どこも「自由」じゃない。
「自由」に動けと言われたら、人は「じぶんの型」にハマった動きしかできないのだ。
だからこそ、「型」にハマることが大切になってくる。
具体的にいえば、礼儀作法。
古からある型に、「じぶん」をハメていく。
はじめは、それが苦しい。
それは「じぶん勝手」を捨てていく苦しみであり、クセを取り去るシンドさであり、「思い込み」から脱出する辛さである。
しかし、その苦しみは「真の自由」への道のりなのだ。
その苦しさを乗り越えなければ、「自由」だなんだとほざいても、それは「じぶん勝手マスターベーション」に終わる。
「自由に、好きに、やりたいことをやっている」
けれども、うまくいかない。
それは「自由でも、好きなことでも、やりたいこと」でもないのだ。
ただ、「じぶんの枠」から出ないように、ぬるま湯に浸かっている活動なのだ。
だから、誰にも響かない。
じぶんの内部だけで気持ちよくなって終わっている。
「じぶん勝手」の枠を飛び出せば、他者や世界との「響き合い」がはじまる。
それは「じぶんがいなくなる」という快感だ。
「じぶんがいなくなった」とき、それを他者から見ると「輝いている」というふうに見える。
逆に「じぶんって輝いているなぁ」と思うとき、はっきり言ってくすんでいる。
だからこそ、ぼくらは「型」を利用すればいいのだ。
それこそが、「真の自由」に至る近道なのだと、ぼくは思う。
そういう「型」をお伝えしているのがハラ生き道です。