「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「束縛されること」を恐れなくなったとき、ぼくらは「自由」になる。

「自由」は、どこかに転がっていたりしない。

 

「自由」は、ぼくらの心の中にしかない。

 

 

他人が、自分を「自由」にしたり「不自由」にしたりすると思っているうちは、「束縛」されることがとても怖い。

 

 

しかし、ぼくらはいつだって「自由」で、その翼はもぎ取られることがない。

 

 

唯一あるとすれば、それは自分でその翼をたたんでしまったときだ。

 

つまり、じぶん自身で自分を縛っている。

 

 

 

だからたとえば「パートナーが束縛してくる」というのは幻想だ。

 

パートナーには、あなたを束縛する力はない。

 

 

「束縛されている」ように感じるのは、自分でじぶんを縛っているからだ。

 

 

 

そして、きっとあなたのパートナーは、あなたを束縛しようとはしていない。

 

あなたがあまりにも逃げ回るので、「これは首輪をつけておかないと」と不安になっているだけなのだ。

 

 

 

つまり、あなたが目の前の人と向き合っていないとき、パートナーはあなたを束縛しようとする。

 

 

逆に、あなたがきちんとパートナーと向かい合うとき、パートナーはあなたを自由にしてくれるだろう。

 

 

 

ぼくもまさにそうだった。

 

 

結婚したとき、子どもが生まれたとき、なかなか「夫」にも「父親」にもなれなくて、すごく苦しかった。

 

だから、とにかく「じぶんの時間」みたいなものが欲しかった。

 

 

その態度は妻にとっては「私たち家族のことに興味がない」というように映ったようだ。

 

 

もちろん、ぼくは家族は大切だと思っていた。

 

けれども、どうしても息が苦しい。

 

「自由」が奪われたような気がして、どこか「損している」ような気さえしていた。

 

独身で、自由に遊ぶ友人をうらやましく思ったりもした。

 

 

しかしそれは、ぼくが「夫」になり「父」になることから逃げ惑っていただけだったのだ。

 

じぶんでじぶんの首をしめていたのだ。

 

 

「夫」になり「父」になることは、けして「不自由」になることではない。

 

「夫」となり「父」となることは、新しい幸せを見つけることなんだ。

 

 

けれども、夫・パパ1年生のころは、全然それが分からなかった。

 

それがゆえに、よく妻とも衝突し、傷つけ、また傷ついたこともあった。

 

 

しかし、幾たびのケンカを経るうちに、ぼくも考えを新たにするようになった。

 

そして、ゆっくりとゆっくりと「夫」となり「パパ」になってきた。

 

 

 

それは「家族と向かい合う」という覚悟だった。

 

 

そして家族と過ごす時間を増やし、「家族である」ということを愉しむようにした。

 

 

すると、不思議なことに、あれだけ苦しかった「束縛感」が、徐々になくなっていったのだ。

 

 

もちろん人間だから、子どもでも妻でも一緒にいる時間が長くなりすぎると、苦しい。

 

とくに子どもの長期休暇のあとなどは、ぐったりしてしまう。

 

 

それでも、「夫」であり「父」であるという喜びを、充分に堪能できるようになった。

 

今では「家族こそが宝物だ」と胸を張って言える。

 

 

それが言えなかったころは「仕事の成果こそが、おれの存在価値」だったんだよな。

 

 

じぶんは「夫」であり「パパ」であると認めることは、ある意味「束縛」されることでもある。

 

仕事の休みでも、じぶんの好きなところに自由に行けるわけでもないし、全部のお金を自由に使えるわけでもない。

 

眠くても寝れないときもあるし、疲れていても動かなきゃならんときもある。

 

 

でも家族の幸せというのは、そういう「どうしようもない束縛感」そのものなんだと、ぼくは思うんだ。

 

 

変なタイミングでタックルされて、腕が痛むとか。

 

変な寝相で子どもが転がってきて、顔を蹴られるとか。

 

掃除したばかりの部屋が、30秒で汚れるとか。

 

布団やクルマがゲロまみれになるとか。

 

早くおでかけしたいのに、子どもがグズグズ準備しててイライラするとか。

 

 

そういうトラブルや苦痛や、大変さこそが、家族の幸せそのものなんだ。

 

 

 

そこに「自由」はないのかもしれない。

 

「じぶんのやりたいこと」をする時間は減ってしまうかもしれない。

 

家族に「束縛」されて、お金も自由に使えないかもしれない。

 

 

でも、そんな状況から逃げさえしなければ、苦しみはなくなる。

 

それは、その状況を「じぶんが選んだんだ」と受け入れ、「いま、ここ」に向き合うことなんだ。

 

 

 

そして「家族」に「妻」に、真摯に向き合ったとき、不思議と「家族」も「妻」も、時間もお金も「自由」を与えてくれるんだ。

 

 

あれだけ強く熱望しても手に入らなかったものが、脱力してあきらめて手放した瞬間に、ぜんぶ手に入ったりする。

 

 

つまり「束縛」を恐れて背を向けるのではなく、「束縛」のなかにあえて自ら飛び込むことで、「束縛」のなかに「自由」を見出すことができるんだ。

 

 

これがホンモノの自由であり、「束縛」から逃げた自由は見せかけの自由だ。

 

 

そう、ぼくらは「目の前の人」に向き合ったぶんだけ自由になれる。

 

「目の前の人」とごまかしの関係を気づいても、自由は得られないんだ。

 

 

 

あなたは、「ホンモノの自由」の喜びを知っていますか?