「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「不安をなくす」とは「奈落の底に突き落とす」ということだ。

すごくざっくり言って、「悩み」とは

 

「〇〇かもしれない」

 

「××になったらどうしよう」

 

と「宙ぶらりん」の状態でモヤモヤすることを言う。

 

 

だから、「宙ぶらりん」になっているヒモをブチっと切って奈落の底に突き落としてあげれば、その人は救われる。

 

 

けれども、エゴ的に優しい人は、

 

「突き落としたら可哀そうだから」

 

ということで、宙ぶらりんの人を引っ張りあげようとしたりする。

 

 

けれども、その人が重すぎて引っ張りあげることができない。

 

そもそも、宙ぶらりんの人は「宙ぶらりん」の状態が好きでやってるんだ。

 

 

だから、引っ張り上げようとすると、とても抵抗する。

 

 

たとえば、じぶんの顔がブスだから嫌いと思っている人に

 

「いやいや、そんなことない。可愛いですよ」

 

と言っても、絶対に受け取らない。

 

 

「そんなことないですよ」と言わせるような文脈で話を振ってくるクセに、こちらが否定してあげると、

 

「えー、でも〇〇だからぁ」

 

と下手くそな言い訳で受け取らない。

 

 

そして「受け取らない」かつ「もう一回言ってほしい」という、非常に面倒くさいコミュニケーションをしてくる。

 

 

それほど自信がないのは分かる。

 

そこまで誰かに自信を叩き潰されたのも分かる。

 

 

でも、面倒くさい。

 

 

だから、宙ぶらりんの人を引き上げる努力は、いつでも徒労に終わるんだ。

 

宙ぶらりんで「助けてー」って言うのが趣味なのだから、ほおっておけばいい。

 

 

しかし、そういう人もあるとき、だんだん宙ぶらりんに飽きてくる。

 

そうすると、「このヒモを切ってくれ」というハラが据わる。

 

 

そこを見定めて、ブチっとヒモを切って奈落の底に突き落としてあげる。

 

 

そうすると、奈落の底では「落ちる」という不安がないので、とてもホッとするんだ。

 

 

これがハラ生き的「安心」です。

 

 

ブスならブスであることを認める。

 

デブならデブであることを認める。

 

アホならアホであることを認める。

 

 

「私ってもしかしたら〇〇じゃないかしら」という悩みに対して、

 

「いや、あんた以前から〇〇だし」と突き放す。

 

 

ここをごまかして

 

「だいじょうぶ、あなたは〇〇なんかじゃない」

 

と励ましてあげたって、それは一時的な麻薬でしかないんだ。

 

 

まぁ、その麻薬はけっこう売れていたりして、充分に商売になるんだけど、おれはそういうの好きじゃないねー。

 

 

ハゲはダサくないけど、カツラをかぶるのはダサい。

 

 

それがハラ生き的価値観だ。

 

 

その意味で「悪口」というのは、すごい効能を持っていて、「悪口」にからだを慣らすことで、ほとんどの「思い込み」は消えてしまう。

 

 

悪口に対する耐性をつける。

 

これは言うほうも、言われるほうも。

 

 

これで、心が「自在」になってくる。

 

褒めることも悪口も、軽く言える。

 

 

その軽やかさが、ハラ的なのだ。

 

 

そこに「悪い言葉・わるい言霊」なんていう観点はない。

 

 

ぜーんぶ受け入れる。

 

 

そこに、最大の「ゆるみ」があるんだ。