すべての親は毒親である。つまり親の役割とは「毒」なのだ。
気が付いてしまった。
「すべての親は、毒親なのだ」
と。
親というのは、子どもに「毒」を与えるために存在する。
つまり教育という名前の洗脳をし、「思い込み」を詰め込み、「子どもらしさ」を奪っていく。
それが、親の役割なんだ。
だから親には「する」ことなど何もない。
ただ、そこに「いる」だけで、充分な「毒」となることができる。
なぜ、すべての親は毒親と言い切れるのか。
例をあげて考えてみる。
たとえば、子どもが中学生の反抗期。
子どもを抑圧し、おさえつけるような親だとする。
するとそこで子どもは「トラウマ」をかかえる。
そして、それは後々「現実的な問題」となって浮かび上がってくるだろう。
この場合、「トラウマ」を植え付け、「問題」を引き起こしたから「毒親」である。
では、「すごくいい親」だった場合はどうだろうか。
理解があり、何をいっても「はいはい」と笑顔で答えてくれる親。
イライラしていることもなく、落ち込むこともなく、理想的な立派な親。
すると、子どもは反抗することができなくなり、独立心をそがれる。
つまり、反抗するタイミングを逃してしまう。
そうすると、それは後々、「遅れてきた反抗期」として「問題」になるだろう。
それから「親のように立派な人間にならなければ」と、無意味な行動規範と責任を強いられるだろう。
そしてそれは「じぶんの本質」から離れた行動を生んでしまう。
つまり。
どんな親であろうと、子どもは「問題」を抱えてしまうのだ。
だからこそ、すべての親は毒だと断言できる。
そもそも、「そういう構造」になっているのだ。
なぜなら、ヒトのメスは20代半ばで子どもを産むことが多い。
言っても40代まででしょう。
その段階で完成している個体など、ひとつもない。
つまり、超~未熟なままで、子どもを作るように設計されているのだ。
ということは、
トラウマや心のブロックを抱え、
感情がうまくコントロールできず、感情に翻弄され、
悩んだり迷ったり困ったりしまくる
「情けない自分」のまんまで、親になる。
そういうふうに仕組まれているのだ。
だから、子育てはうまくいくわけがないし、うまくやろうとする必要などどこにもない。
上述したように、うまくやろうとやるまいと、どうせ親は毒になるのだ。
つまり、「すべての親は毒親」=「毒親などいない」ということになる。
「毒親」という言い方は、「毒のない親」がいるという前提だ。
けれども、そもそも親とは毒なのだから、「毒親」という言い方はおかしい。
だから
「毒親に育てられたから〇〇」みたいな言い訳もおかしい。
毒親に育てられたから心理カウンセラーになれる人もいる。
毒親に育てられたから殺人犯になる人もいる。
この事実も、「毒親などいない」ということを示している。
だからこそ「わたしの親は毒親だったから」というのは何の理由にもならないし、
「じぶんが毒親になってしまうのではないか」
ということを心配する必要もない。
毒親だなんだと騒ぎ立てるヒマがあるのなら、その時間を「じぶんを大切にすること」に使えばいい。
はっきり言って親など関係ない。
「わたしの母は毒親だから・・・」と言っている時点で、母に依存しする甘えん坊なのだ。
その状態であれば、「わたしの母は毒親なんで・・・」とか冷静に分析している場合ではない。
それは「親を憎みきる」ということが足りないんだ。
はやりの「感謝論」に踊らされ、
「感謝しなきゃ」
「感謝しよう」
「感謝できない自分はダメなんだ」
と「すなおな自分」を押し殺してしまう。
それは「クソなじぶん」を見たくないだけなんだ。
だから、ちゃんと「親を憎みきる」。
「感謝」というのは、「憎み切っ」たあとに、自然と沸き起こる結果なんだ。
だから「感謝しよう」なんて努力しているヒマがあったら、ちゃんと憎む。
恨む。
思いのたけをぶつける。
そうやって、「真正面から向き合う」ことが先決なんだ。
キレイごとの感謝論なんかに惑わされてはいけない。
親の毒を見つめるヒマがあるのなら、じぶんの毒を見つめたほうが早い。
もう一度、結論を言う。
「毒親などいない。すべての親は毒なのだ」