「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

丸まったダンゴムシを開くには~心を閉ざした人との付き合い方~

「わたしは、こんなに大切にしているのに」

 

「こんなに愛しているのに」

 

「こちらは、心を開いているのに相手が…」

 

 

心を閉ざしてしまった相手。

 

心がそっぽを向いている相手。

 

背中を向けている相手。

 

 

そんな人に対してどう接していいか迷ったことはないだろうか?

 

「あの人さえ変わってくれれば・・・」

 

「どうしたら心を開いて、向き合ってくれるだろうか」

 

 

そんなことで悩む人は、あなただけではない。

 

多くの人が「向き合いたいけど、相手が・・・」ということで悩んでいる。

 

 

そこで今日は「心を閉ざしてしまった人」へのハラ生き的対応などを書いてみたいと思う。

 

 

まずは、「こころを閉ざしてしまった人」をダンゴムシと考えてみよう。

 

 

丸まってしまって、「ハラ」という弱みを見せない。

 

背中を向けて、やりすごそうとしている。

 

 

そんなダンゴムシをあなたは見つけた。

 

 

さて、そのダンゴムシに開いてもらいたいと思ったとき、あなたはどうするだろうか。

 

 

そう。

 

きっとあなたは「待つ」ということをするはずだ。

 

 

ダンゴムシだって、一生まるまっているわけにはいかない。

 

 

数分たつと、脚がもぞもぞと動き出して、カラがゆっくりと開いてくる。

 

 

さぁ、問題はそのあとだ。

 

 

「早く開け」とばかりに、ダンゴムシに触れたとたん、またダンゴムシはキュッと丸まってしまう。

 

 

放っておけば開いてくるものも、「手をかける」ことで、また閉じてしまうのだ。

 

 

それは当たり前で、そもそも「ダンゴムシはなぜ丸まってしまったのか」ということを考える必要がある。

 

 

「丸まる」ということは、防御なのだ。

 

「じぶん」を必死に守っているんだ。

 

 

それには何か生命の危機にさらされたとか、それと同様の心理的ショックがあったか、とにかく「危険」を感じて丸まっている。

 

 

そんな状態で、おいそれと「ハラを開く」なんてことはできない。

 

怖くて怖くて怖くて、手を差し伸べられても怖くて。

 

 

開きたいけど怖くて、疑ってしまって、そんな疑ってしまう自分をまた嫌いになったりして。

 

 

差し伸べられる手は嬉しいのに、「そんな助けは要らない」と正反対のことを言ってしまったり。

 

そんなひねくれた自分を、また責めてみたりして。

 

 

丸まったダンゴムシのなかでは、「天使」と「悪魔」が、めくるめく攻防を繰り広げているのだ。

 

 

やさしいダンゴムシは、けっしてその攻防を外には見せないだろう。

 

それは心配をかけたくないし、迷惑をかけたくないし、相手の手をわずらわせたくないからだ。

 

 

けれども、その態度は、「手を差し伸べる側」からすれば、

 

「冷たい」とか「無視された」とか「逃げている」ように見えるだろう。

 

そして、その態度を責めることで、またダンゴムシは固い殻のなかに閉じこもってしまう。

 

 

じゃぁ、いったいダンゴムシとはどのように付き合えばいいのか。

 

 

それは

 

「信頼&信頼&信頼」

 

だ。

 

ダンゴムシが「丸まらざるを得なかった理由」に心から共鳴し、その「かなしみ」をともに味わうことだ。

 

 

そして、

 

「あなたはできる。絶対できる。あなたはすごい」

 

その態度を1ミリも崩さずに、永遠に待ち続ける覚悟で関わることだ。

 

 

そのときに

 

「時間」

 

というものがすごいエネルギーを持つ。

 

 

「時間」が関わってくるとき、「ぼくらに出来ることなど何もない」というあきらめの境地に達する。

 

 

たとえば指先の傷だって、触れば触るほど治るのは遅くなる。

 

肋骨にヒビが入っても、鼓膜が破れても、やることはなにもない。

 

 

できることはただ、

 

「待つ」

 

ということだけだ。

 

 

「待つ」なかで、自然と状況が移ろいでいく。

 

ぼくらにできることは、その移ろいを「見る」ということだけなんだ。

 

 

ときに「待つ」だけという行為は「焦り」を生むでしょう。

 

「早く開いてくれたいいのに」

 

と焦れることもあるでしょう。

 

 

「まだ開かないのかよ」

 

と不満を感じることもあるでしょう。

 

 

それはそれで自然なこころの働きです。

 

そんな「こころの波」を抑える必要はない。

 

 

けれども、それをダンゴムシにぶつけてしまうと、結局ひらくのが遅くなるだけだ。

 

 

だからイライラすることもあるだろうけども、そこはハラを据えて、ぐっと「こらえる」。

 

 

この「こらえる」というのが、ハラの真骨頂なのだ。

 

 

ガマンするのではなくて、「こらえる」「辛抱する」

 

 

ガマンには未来がなく、不満しかない。

 

 

けれども「こらえて辛抱する」ことは、「一時的なこと」なのだ。

 

 

今はまだ「未来」が見えないかもしれない。

 

暗いトンネルのなかでもがいているかもしれない。

 

まったく外側には変化が見えないかもしれない。

 

 

けれどもダンゴムシの内側では、すこしずつすこしずつ、「兆し」が生まれているんだ。

 

 

あなたの愛情は、かならず届いている。

 

 

ダンゴムシは、丸まって丸まってガードした殻のなかで

 

「ごめんね、ごめんね。ありがとう、ありがとう」

 

と泣いているんだ。

 

 

固い殻の見た目に惑わされてはいけない。

 

殻が固いほどに、かならず内側には「優しすぎるもの」を抱えているんだ。

 

 

そこにアクセスできたとき、きっと新しい展開が待っているはずだ。

 

 

シンドイときもあるでしょう。

 

 

けれども、きっとダンゴムシの殻が開くときがくる。

 

それまで相手を信じ、じぶんを信じる。

 

 

それしかないと、ぼくは思うんだ。