じぶんの内側への探検をはじめると、外側への冒険もはじまる。
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・・・冒険してる?
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ぼくは「幸せとは充実感だ」というふうに定義している。
ハラ生き道でいう「なくならない幸せ」とは「無条件の幸せ」のこと。
しかしここで「幸せ」を「ふわふわの幸福感」と解釈してしまうと、なかなかシンドくなる。
なぜなら「ふわふわの幸福感」を幸せと定義したとたんに、それ以外の感情は「幸せ」じゃなくなってしまうからだ。
もちろん、穏やかで落ち着く、やわらかい幸せもあるだろう。
けれども激しくて、エネルギッシュで、爆発的な幸せもあるんだ。
幸せにはいろんな色がある。
青い幸せ、赤い幸せ、ピンクの幸せ、緑の、紫の、茶色の・・・
そのすべてに共通するのは「充実感」なんだとぼくは思う。
だから「幸せ=充実感」と定義すれば「いつでも幸せ」が可能になる。
けれども、「幸せ=ふわふわの幸福感」と定義してしまうと、それ以外のときが「幸せ」ではなくなってしまう。
ハラ生き道の根本は
「いつでも、どこでも、このままでいい。変えなくていい」
という発想だ。
それを実現するためには「幸せ=幸福感」ではなく、「幸せ=充実感」と定義しなおす必要がある。
では、その「充実感」をいかに得ていくかというと、それは「ハラを満たす」ことだ。
それをハラ生き道では「ハラ満た」と呼ぶ。
ぼくらのからだは「ハラ」を満たせば、充実感を感じるようにできている。
だから、「ハラを満たす」ような行動をしていれば、「充実感」を感じられ、すなわち「なくならない幸せ」を身につけることができるという寸法だ。
では、どうやって「ハラを満たす」のかというと、それが
「冒険」
なんだ。
最近、冒険してますか?
冒険とは「危険」を「冒す」こと。
つまりデンジャラスに飛び込むってことだ。
あなたにとっての危険領域があるでしょう。
そこへ足を踏み入れる。
そんな体験によって、「ハラを満たす」ことができる。
あなたにとっての「危険領域」はどこだろうか。
あの人に言いたいことを言うこと?
愛されることを許可すること?
じぶんらしく表現していくこと?
愛想笑いをしないこと?
断ること?
人によって、デンジャラスゾーンはさまざまだ。
しかしいずれにせよ、その危険領域に突っ込んでいくということ。
それが「ハラを満たす」ことにつながる。
しかし「逃げグセ」がある人は、ことごとく「危険領域」を避ける。
それもあまりにも無意識に。
ときには「じぶんには危険領域などない。もうすべて制覇した」というような顔をして、余裕ぶっこいている場合もある。
けれども人間として生きる以上、「危険領域」がなくなることなんてないんだ。
だから「危険領域」を見ないようにする「逃げグセ」は、ほんとうに人生を台無しにしてしまう。
この逃げグセは、「癖」、つまり習慣なので、人に指摘してもらわないと、気づくのがなかなか難しい。
場合によっては、指摘されても「逃げてなどいない」と逃げてしまうこともある。
だが、人から見れば逃げているのは一目瞭然なんだ。
ハラを満たして「充実感」にあふれる人生を送りたいなら、逃げずに自分の内側へ探検していくしかない。
そこには、「見たこともないような自分」がいるだろう。
「見たくない自分」もいるだろう。
「見せたくない自分」もいるだろう。
じぶんの内側の探検の道中では、「モンスター」や「妖怪」、「鬼」にたくさん出くわす。
けれどもそれらはすべて、じぶんが自分のなかに飼っているのだ。
そして彼らと手を組むことができたとき、「じぶんの本心」が立ち現れてくる。
そして、その「本心」にしたがって行動していると、それは自然と「冒険する生き方」になってしまう。
さぁ、今あなたは冒険の旅に出ているだろうか?
もしくは安住の地で安楽・安全な暮らしをしているだろうか?
きっと前者の人は「なくならない幸せ=充実感」を感じているはずだ。
後者の人は「幸せなはずだけどどこか違う」と感じているはずだ。
ぼくらが「生きる」という旅を最大限に愉しむのは、冒険しているときだけだ。
ゴールなどなくてもいい。
いま、この瞬間に、冒険をしているか。
一瞬一瞬、小さな一歩を踏み出しているかってことが、何より大事なんだ。
ぼくらが自分の内側に一歩踏み出すと、自然と外側の世界でも冒険してしまう。
この「充実感」の世界にシフトしてしまったら、もう戻ることはできないんだ。