「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

パートナーが自分を束縛しているわけじゃない。自分でじぶんを縛っているんだ。

ハラ的に考えれば、そもそも「束縛される」という日本語がおかしいのです。

 

ぼくらは誰かに「束縛される」ことなんてない。

 

じぶんを縛り付けるのは、いつでも自分なんだ。

 

 

 正直に告白すると、ぼくはたまに「妻に束縛されている」と感じることがあります。

 

 

結婚して子どももいるのだから当たり前だと思われるかもしれませんが、自由に遊びに行ったり、完全に自分の時間だけに使えないので、そう感じるわけです。

 

 

けれども、よくよく総合して考えてみると、そんなに束縛されなかったりするわけです。

 

 

ちょくちょく遊びにいったり、セミナーに行ったり、飲み会に行ったりということができている。

 

 

じゃあ、いったい何が不満で、どう束縛されているのかというと、それは

 

「自分でじぶんを束縛している」

 

のです。

 

 

たとえば、

 

「ウチの妻は束縛したがる」という考え方。

 

「ぼくは自由ではない」という考え方。

 

 

そういう考え方によって、じぶんの自由を奪い、自分でじぶんを束縛しているのです。

 

 

なぜ、「じぶんを束縛」してしまうのか。

 

 

それは実は

 

「やりたくない」

 

からなんですね。

 

 

「やりたいこと」を邪魔されているんじゃなくて、ハラの底ではやりたくない。

 

だから、他人を使って「やらなくていい理由」をこしらえているわけです。

 

 

ぼくが妻に本気でやりたいと言ったことは、かならず妻は応援してくれた。

 

 

整体師になると行ったときも、関東から地元の名古屋に戻るときも、整体をやめてセミナーをやると行ったときも。

 

 

ぼくが覚悟を決めて伝えたときは、かならず賛成し、かつ全力で応援してくれたのです。

 

 

逆にハラが動いていない会合、飲み会、セミナーに「なんとなく」出ようとすると、

 

「また…?」

 

「この日は休日でしょ?」

 

なんてストップがかかる。

 

 

結果的に、ぼくは「ハラで選んだもの・こと」だけを選択しているのです。

 

 

これは本当に面白い仕組なんです。

 

 

だいたい、ぼくが「束縛されている」と感じるときは、じぶんのからだがクリアじゃないとき。

  

 

エゴがたまってよどんでいるときほど「自分勝手」な行動が取りたくなる。

 

 

つまりエゴをすっきりさせるような「ストレス解消行動」をしたくなる。

 

 

で、この「ストレス解消」ですが、現代社会では大切って言われてるけど、ハラ生きでは重視していない。 

 

 

むしろ

 

「なんでストレス溜めてんの?どっかで我慢してんでしょ」

 

とストレスをためること自体が恥ずかしいこととされている。(勇気がないからストレスが溜まる)

 

 

だから「ストレス解消行動」というのは重要じゃないのです。

 

 

それを、ぼくがやろうとすると妻が嫌がる。

 

 

結果的に、ぼくは「ストレス解消行動」をしたくなった要因に目を向けることができるということです。

 

 

 

だからたぶん今

 

「誰かに束縛されている」

 

「誰々のせいで〇〇ができない」

 

「会社員だから△△を制限されている」

 

みたいに感じている人は、「ハラの底からやりたいこと」に出会ってないんだと思う。

 

 

そして「他人や環境の束縛」を言い訳にして、「やらない」のを「できない」ってことにしてるんだね。

 

 

 

あらためて、自戒を込めて書きます。

 

 

人は「束縛される」ことは絶対にない。

 

人は、いつでもどこでも「自由」だ。

 

 

じぶんを縛るのは、いつも自分だ。