不満から出てくる欲求は幻想。「ホントの欲求」は、”満足”から生まれる。
ぼくは、最大の不幸というのは
「わたしは幸せだ、と言い聞かせること」
だと思う。
本音を偽り、不満を隠し、ないことにして、
「これでいいんだ」と思おうとする。
そこに積もっていく小さな不満は、やがて大きなドロドロとなって、ドロドロとした現実を生み出してくる。
からだの中にある「不満」は、それを満たそうとする欲求を生む。
「愛されてない」という不満があれば、「愛されたい」という欲求を生む。
「お金がない」という不満があれば、「お金がほしい」という欲求を生む。
「私はブスだ」という不満があれば、「キレイになりたい」という欲求を生む。
けれども、こういった「不満から生まれる欲求」というのは幻想なんだ。
なぜなら、そもそもは「不満」が幻想だから。
そしてこの「不満から生まれる欲求」には特徴があって、それが
内容的に「~ねばならない」になっている、
ってことなんだ。
そう「愛されたい」のも「お金がほしい」のも「キレイになりたい」のも、自然といえば自然な欲求。
けれども、それが「不満」から発している場合は、
「~たい」といっても実態は「~ねばらならない」になっている。
つまり
「愛されなきゃダメ」「お金がないとダメ」「キレイにならなきゃダメ」という
「執着」
になっている。
なぜ執着してしまうかというと、それは
「根っこからの満たされ感」
がないから。
根本的な、自分の「いのち」に対する肯定感がないとき、ぼくらの「透明な欲求」は「ドロドロの執着」に変わってしまう。
ぼくらの透明な、そして純粋な欲求は「満足」からしか生まれない。
それは、
「からだが満ち足りていること」
だ。
からだが満たされ、存分に満足しているとき、ぼくらの「本質」からクリアな欲求が生まれてくる。
ハラ生き道で求めるのは、この「クリアな欲求」に出会うことなんだ。
いわゆる「やりたいことをやる」というのも、この「クリアな欲求を満たす」ということなんだ。
このクリアな欲求には執着がなくて、とってもライトだ。
なぜなら「すでに満ち足りているから」。
「もう充分だ」と思った上での欲求なので、叶わなくてもかなわない。
そういう軽やかさがある。
そして、そういう欲求ほど、叶いやすかったりするんだよね。
さぁ、あなたのからだは内側から充分に満たされていますか?