「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「愚痴を言わない」というルールで自分を縛ると、愚痴を言う人を責めたくなる法則

精神世界でも成功法則でも、勉強しすぎると陥るワナみたいなのがあって。

 

「策士、策に溺れる」みたいな状態になって、結構つまづいたりする。

 

 

そんななかで結構ハマりやすい落とし穴に、

 

「愚痴を言わない」

 

っていう変なルールがあるんだよね。

 

 

なんか知らないけど、この「ルールは正しい」みたいに思われているところがあって。

 

 

ほんで、なんか知らんけど「愚痴を言わない」のが立派なことみたいになって。

 

 

それで「愚痴を言わない」ことを誇りにしているような人もいたりする。

 

「以前は愚痴ばっかりだったけど、今は言わなくなりました」

 

みたいに、なんか成長を自慢しちゃったりして。

 

 

でもさ、そういうルールを自分に課している人って、愚痴を言う人を嫌がるんだよね。

 

マイナス思考だとか言って。

 

 

それでさ、「愚痴を言わない」っていう、なんか否定しづらいルールがあるもんだから、

 

「愚痴ばかり言ってるやつはバカだ」

 

みたいな意見を書いても、誰も反論してこないのよね。

 

 

みんな自分のことを棚にあげて

 

「ホントホント、愚痴ってイヤですよね」

 

「以前は愚痴ばかりでしたが、今は言わなくなりました!」

 

「愚痴を言う人って、きっとさみしいんですね」

 

みたいなコメントしてみたりして。

 

 

それって結局、「愚痴を言う人を責める会」を作って、

 

「自分は愚痴を言わないんでございますー」

 

っていう【棚上げマウンティング】なんだよね。

 

 

で、そういう「会」ってポジティブなようで、ぜんぜん生産性がなくて。

 

 

っていうのは、「わたしは愚痴を言うようなレベルからは抜け出しました」という「できてるつもり感」が、ハラ生きにいちばん邪魔なんだよ。

 

 

それってさ、たとえばテストで90点取った人が満足しちゃって、30点の人を見下してるみたいなもんなんだよね。

 

それってカッコ悪いじゃん?

 

じゃあさ、

 

「本当に生産性のあるあり方ってどんなん?」

 

って言ったら、

 

 

「自分の内なる愚痴を、自分がぜんぶ聞いてやる」

 

 

ってことななんだよ。

 

 

そう、「愚痴を言わない」なんてルールを作っちゃうと、愚痴が出そうになる瞬間に、こころの奥底にしまっちゃうんだよね。

 

 

もちろんさ、「愚痴がまったくない」なら良いんだけどさ、そんな人いないでしょ?

 

 

愚痴=外界に対する不満、だよね。

 

 

そりゃ「世界は自分の思い込みの投影」だから、じぶん自身を見ていくのが王道だよ。

 

 

それは分かってる。

 

 

分かってるけど、「外界への不満」が出てきちゃうのが、人間ってもんなんだよ。

 

 

それをなかったことにすればさ、自分でも「悟った気」になれるし、他人にも「悟ったふり」ができるだろうね。

 

 

でもさ、それは嘘くさいし、キモチ悪いんだよ。

 

 

本当は愚痴や不満でいっぱいのクセに「笑顔、笑顔」みたいなの、アホらしいと俺は思うんだよ。

 

 

 

そんな「イカサマ悟り野郎」になるくらいなら、ちゃんと愚痴は愚痴として処理すればいいんだよね。

 

 

アタマでは「外界はすべて、じぶんで創っている」って知ってるわけなんだから、

 

 

「なぜ、こういう愚痴を言いたくなるんだろう?」

 

「どんな”思い込み”によって、こんな愚痴が出たのか」

 

「この愚痴から、どんな自分のあり方が見えてくるのか」

 

 

ってことを突き詰めていって、「あり方を修正」すればいいんだよね。

 

 

おれは、それがいちばん生産的で健全で建設的だと思うな。

 

 

世に言う「精神世界の法則」とか「成功法則」ってのは、話半分に聞き流すくらいにしておくとちょうどいいんじゃないかな。

 

で、残り半分はおぜっきーのLINE@の情報でも詰め込んでおけばいいじゃないかなww

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