「このブログを、あの人に読ませたい」と思ったときに心の中で起こっていること。
ぼくらは、表面的に
「自分をすべて受け入れる」とか
「ぜんぶ肯定する」とか
「認めて、愛する」
なんてことを言っても、そうそう腑に落ちるもんじゃない。
はっきり言って「ぜんぶ肯定する」ことが出来ているという自覚がある人で、「ぜんぶ肯定する」している人を見たことがない。
だいたい、「悟った系の勘違い」か、自分を無意識に偉く見せているだけだ。
ほぼ100%の人が、「都合のいい部分だけをすべて」受け入れているのだ。
つまり、誰もが「100%受け入れる」なんてことは出来ていない。
それに気づく、ひとつの基準として
「あの人が、ああなったらいいのに」
という思いがある。
これは他人(つまり自分)を責めているときに出てくる典型的な思いだ。
「清水さんは、仕事をちゃんとこなしたうえで出家すればいいのに」
「教師は、こういう教育をすべきなのに」
「線路内に立ち入るなんて、芸能人がやることじゃないのに」
こういう「思い」がふっと湧いてきたとき、ハラ生き道を歩む人は、
「自分の潜在的な思い込みを見つけるチャンスだ」
と思っていただきたい。
そう、「誰かを変えたい」という思いは、その誰かが持っている「あり方」を自分に許していないということなんだ。
で、そういうときはたとえば、ブログでいい記事を読むと、
「これをダンナに読ませたい」
なんてふうに思ってしまう。
実際、いわゆる「セックス3部作」が大量にシェアされたとき、そういうコメントがかなり散見された。
でも、それはハラ生きとはズレてしまう。
ぼくは男性だから、男性目線で反省の記事を書いたけれども、女性は、ウチの妻の目線で読んでほしいのです。
つまり「おぜっきーが素敵なダンナでうらやましい」ではなくて、
「どうやって妻はっぴーは、おぜっきーを変えたのか」
「女性がどんなあり方ならば、ダンナがそれほど愛してくれるのか」
「どんな意識と行動で、おぜっきーに影響を与えたのか」
ということに目を向けていくのがハラ生きなんだ。
これは、全部そうなの。
素晴らしいセミナーを受けると
「これを誰々に受けさせたい」
素晴らしい本を読むと、
「これを、〇〇さんに読ませたい」
って、違うのよ。
「自分のあり方」を見つめていく、って本やセミナーで気づいて、
「〇〇さんは、自分のあり方を見つめないからダメなのよね」
っていうあり方がダメなのよねwwwww
誰かを変えようとするのは苦しいよ。
って、おれもいつも奥さんを変えようとしてケンカするんだけどwww
「こっちが半分、譲歩して変わるから、アンタも半分は変わりなさいよ」
も通じないよね。
もうプライドぶっ潰して、100%こっちが変わる。
そのハラが決まったときじゃないと、相手って変わらないのよね。
おれが、こないだケンカして河原にいったときも、
「おれが完全に悪かった」
って腑に落としてから家に帰ったら、嫁さんも完全にスッキリしてたからね。
それをね、腑に落ちてないのに、とりあえずケンカおさめようって土下座してもダメなのよ。
絶対に通じない。
相手に対するすべてのコントロールを捨てたとき、はじめてこちらの思い通りになってくれるんだ。
これ、ものすごいパラドクスで。
でも、お金とか仕事とかにも通ずる真理だったりして。
だから今、
「あの人がどう」とか
「あの人さえ変わればどう」とか
「あの人のせいでどう」とか
そういう悩みがあるんなら、それはお門違いだよってこと。
それはさ、フォーカスが「自分」から「他人と環境」になっちゃってるんだよね。
つまり「他人と環境」アディクション(依存症)になってるんだよね。
なんで、「他人と環境」に依存しちゃうかって、それはもちろん「からだの軸」がないからなんだよね。
人間、「からだの軸」がなければ、自立していられない。
で、からだが自立していなければ、こころだって何かに依存してしまう。
で、そういう「からだの軸」とか「あり方」とか「フォーカス」を修正するには時間かかるの。
だから、ブログ読んで「できてる気」になるのが、いちばん悲しいんだよ。
それで、「私はいいから、あの人が変わったらいい」ってなったら、そりゃ苦しいのが続くよね。
こんなこと偉そうに書いてるおれですら、「人を変えたい」ってすぐに思ってしまうんだ。
だから、せめて半年以上かけて、じっくり「思い込み」に向かい合って、自分の「フォーカスのくせ」を見つめていくのが大切なんだよね。
そうやってちゃんと取り組まないと、いろんな情報に振り回されるだけで終わると思うよ。
「ブログ読んで都合よく受け取って、気分だけ高まっても仕方ないよな」って思ったんで、せっかく好感度あがったのに嫌われる覚悟で書いてみました。
ではでは。