「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「自分を鍛える」とか「修業」とかをやめてしまえばいい。~成長しなくていい~

実はハラ生きには、成長という概念がないんです。

 

性格に言えば

 

「成長しよう」

 

という意識は余計なものであると考えています。

 

 

成長しよう、向上しよう、高めようというと、なんだかカッコいい気がします。

 

誰にも怒られなさそうだし、さらには誰かに褒められそうな気さえしてきます。

 

 

「やりたいこと」ではなくて、「褒められそうなこと」を無意識に選択してしまうクセのある人がいます。

 

そう、それは以前のぼくです。

 

 

ぼくは小さいころから褒められて育ってきたので、ついそこを求めがちです。

 

 

「しっかりしているね」

 

「ちゃんとできているね」

 

そういう部分を褒められ続けると、エゴ社会における「優等生」にはなるんですが、

 

「まるごと自分を認める」

 

というハラ世界からは遠ざかってしまいます。

 

 

成長したくてたまらなかった僕の好きな言葉は

 

「修業」

 

でした。

 

 

どうも前世的なものの関連もあるらしいのですが、ほおっておくと「ストイック」

になってしまうのですね。

 

 

すると「自分を鍛える」なんてコンセプトが大好きになってしまうわけです。

 

 

しかし、このあたりの概念というのも、ハラから観ればほとんど幻想というか妄想というか、

 

すべて「自分責め」からスタートしているのだと気づきます。

 

 

「今のままではダメだから修行しよう」

 

「このままでは価値がないから、価値を高めよう」

 

「自分は弱いから強くならなきゃ」

 

 

ぜんぶ、「自分責め」です。

 

 

ほいで、これをやめないことにはラクに生きれないのです。

 

 

なんて話をすると、面白いことに

 

「気楽に生きたいんです」

 

なんて常日ごろ言っている人が反発してきたりする。

 

 

「やはり人間、成長が大切なんじゃないですか」

 

「すこしは、努力が必要ですよね?」

 

「弱さを克服することで人間ができてくるんじゃないですか」

 

なんて。

 

 

いやいやいや。

 

その考え方だから、気楽に生きられないんじゃないですか。

 

そうやって自分を否定しているから、苦しいんじゃないですか。

 

 

良いんでございますよ、努力しなくて。

 

そのまんまで、じゅうぶん価値があるんでございますよ。

 

 

 

でも、それ認めるの怖いよねー。

 

わかるよ、おれも怖かったもん。

 

「自分に厳しく」して、「自分を鍛え」て、「自分を高め」ていたほうが「ラク」だったもん。

 

 

 

きっと

 

「わたしは、このまんまで価値がある」

 

なんて口に出したら、からだがゾワゾワすると思うよ。

 

 

 

でもね、ハラ活性化メソッドで、その「からだのゾワゾワ」を解消していけば、あたらしい価値観を認めることができるようになっちゃうんだな。

 

 

けっきょく「思い込み」って、「不要な身体反応」のことなんだよ。

 

 

だから「不要な身体反応」を取り除いてやれば、

 

「要らない思い込みにもサヨナラできる」

 

んだよね。

 

 

 

ハラ活性化メソッドは、ここにまとめといたんで、「からだの不要な緊張」を取り除きたい人は、やってみてねー(^^)/