あなたに自信がないのは、誰とも本気で向き合ってないから。
「誰かと出会ったことがありますか?」
こんな質問をされたら、きっとあなたはけげんな顔をするだろう。
「何百人、何千人の人と、出会ってきましたが…」と。
では、こんな質問だったら、何と答えるだろうか。
「そのなかで、何人と本気で向き合いましたか?」と。
いま「自信がない」と感じる人は、きっと誰とも本気で向き合ったことがないのかもしれない。
向き合う。
真正面から受け止める。
本音でぶつかる。
そういうことをするには、否が応にも「自分のまんなか」を意識させられる。
そして「自分のまんなか」が相手を通じてみえてくると、ぼくらは自信を持つようになっている。
だから、いま「自信がない」と感じるのは、誰とも本気で向き合ってきていないのではないかとぼくは思うんだ。
なぜ、そう思うのかと言えば、何を隠そう、このぼくが「人と真正面から向かい合う」ということが分からなかったからだ。
ずっと逃げていた。
真ん中からぶつかることを避けていた。
どこかスカしていた。
もちろん表面上でぶつかったり、対抗してみたりということはあった。
けれども、本質的に、内側から当たるということは分からなかったんだ。
それは「傷つきたくない」という思いがあったから。
「自分は特別だ」と思いたい。
(みんなと違って)スゴイと思われたい。
弱さを見抜かれたくない。
そんな思いがあったからこそ、「自分のまんなか」からぶち当たるということから逃げていた。
そして、逃げれば逃げるほど、自信が失われていく。
内側をさらけ出したら何かが終わってしまうんではないかという恐怖が、潜在的に自分を支配していった。
すると「ほんとうは気持ちをわかってほしい」のに、あえて「わかりにくい」ようなカモフラージュ的な言動をしてみたり、どこか奇抜な行動になってしまっていた。
そして、その「理解されない」というかなしみをごまかすために、「他人には理解できない」というねじれて正当化されたプライドを養っていった。
そんなぼくが、人生ではじめて向き合ったのが妻の葉月だ。
何百回ものケンカのなかで、ぼくは自分がいかに人から逃げていたかを思い知らされた。
そしてくだらないプライドや、実力のなさがバレる恐怖、自分をひらく怖さを死ぬほど抱えていることを知った。
何度も何度も何度も何度も
「お前がおかしい」
「お前が間違っている」
「お前が変わるべき」
ということをがんばって主張した。
けれども、何も変わらなかった。
やはり局面やフェーズが変わるのは、「ぼくが自分の内側に意識を向けたとき」だけだったのだ。
そして、ここまで読んでみてこころがグサグサ痛いというあなたは、きっと今、こころが外側に向いている。
そして、誰とも本気で向き合ってこなかった恥ずかしさを感じているに違いない。
もしそうなら「それもOK」なんて、「ありのままクソ理論」などは打ち捨てて、今日からでもハラ生きにシフトしたほうがいい。
もちろん、自分から逃げ続け、目の前の相手から逃げ続けたい人は、「そのまま」でもいい。
けれども、今日からでも
「自分の中心を知りたい」
「目の前の人と、まっすぐぶつかりたい」
「もう逃げずに本気で生きていきたい」
というのなら、「ハラと軸」の感覚を体感することをオススメする。
「ハラでぶつかる」のも「目の前の相手から逃げる」のも、クセの問題なんだ。
だから、昔から「ハラでぶつかる」クセづけをされている人は、「目の前の相手から逃げる」という感覚が分からない。
そういう人は、別に僕のところ来る必要はない。
けれども、昔から「逃げグセ」が付いている人は、そうとうがんばって意識して、自分の正面から相手の正面に当たっていくということを実践していかないと、「逃げた」ままで人生を終えてしまう。
そう、おぜっきーに会いに来るべき人は、昔のぼくのように「目の前の人にきちんと向かい合うのが怖い人」なんだ。
誰かと本質的に「出会う」という意味を体感できてますか?
目の前の人から逃げないということを知らずに生きていきますか?
自分の内側に入らず、外側の世界に翻弄されて生きますか?
そんな問いに自信をもって答えられるようになりたいなら、ここで「他人と本気で向き合う」という稽古をしてみてもいいかもしれない。