「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「必要」という目で見てみると、からだがゆるんでくる。

「必要、ひつよう、ヒツヨウ…」

 

苦しいときは、このことばを繰り返してみてほしい。

 

きっと、からだがふっと軽くなるのを感じるはずだ。

 

 

 

過去のことについて。

 

怒り、悲しみ、トラウマ…。

 

ぼくらは、「もう過去の不要になったテーマ」にリンクしてしまうとき、からだがどんどん重くなってくる。

 

 

もう「いま」ではそれは不要となったのに、「思い」を抱え続けることで、みずから苦しみを背負っていたりする。

 

 

手放してしまえばいいのに、手放せない。

 

 

そんなとき、「なんで」という表現の「否定」をしているときがある。

 

 

「なんで、あんなことが起こったの」

 

「なんで、あんなことを言ってしまったんだろう」

 

「なんで、あのときあれを選ばなかったんだろう」

 

 

これは、カタチのうえでは疑問文だけれども、実は「否定文」なんだ。

 

 

つまり上の文を意味論的にひもといていくと、

 

「あんなことが起こらなければよかったのに」

 

「あんなことを言わなければよかった」

 

「あれを選んでおけばよかった」

 

と過去に対して否定しているのだ。

 

 

けれどもそこに気づかず「疑問文」にしているから、否定の前提が「肯定の前提」に昇しないまま、「否定」を強化する「疑問の答え」ばかりが出てきてしまう。

 

たとえば

 

「なんで、あんなことが起こったんだろう」

「私がわるい考えを持っていたからだ」

 

などなど、さらに否定を深めていってしまう。

 

すると苦しみは増すばかりだ。

 

 

だから、こんなときは「否定」という前提を、「肯定」に変えてしまえばいい。

 

 

その魔法のフレーズが「必要」ということばなのだ。

 

 

いま、ここで

 

「必要なことしか起こらない」

 

と口に出して言ってみてほしい。

 

 

電車の中でも構わない。

 

いきなり、

 

「必要なことしか起こらない」

 

と叫んでみよう。

 

 

きっとあなたは駅員に連行されていくだろう。

 

しかし、それも「必要なこと」なのだ。

(ここ笑うとこだよ。わかるよね?ww)

 

 

あなたは今までに、たくさんの納得のいかない経験をしてきだろう。

 

後悔もたくさんしただろう。

 

恥ずかしい思いもたくさんしただろう。

 

 

それらを今、「必要だったんだ」と認めてしまうんだ。

 

 

まだ「意味」は分からないかもしれない。

 

「理由」も見つからないかもしれない。

 

 

それでも、「必要だったんだ」と認めてしまう。

 

そして「当時は必要だったんだ」という角度で認めていくと、

 

「じゃぁ、今は不要ってことだよね」

 

と「いま」の価値観も変わっていく。

 

 

それはもしかしたら3秒前の価値観かもしれない。

 

3秒前に怒ってしまった。

 

それは3秒前には必要な感情だった。

 

だから、それはそれでいい。

 

けれども「いま、この瞬間に、その感情は必要なのか?」と捉えなおしてみる。

 

必要ならば、その感情が続くだろう。

 

それはそれでいい。

 

 

でももし、「それって、いまも必要?」と自分に問うたとき、「要らないな」と思えば捨ててしまえばいい。

 

 

つまり、

 

「いま、手放せるものは不要なもの」

 

「いま、手放せないものは必要なもの」

 

というシンプルな構図が浮かび上がってくるのだ。

 

 

どうだ、シンプルだろうwww

 

 

だから、もう無理に手放すことはない。

 

「不要になった価値観」だけ捨てていけばいいだけの話なんだ。

 

 

「すでに起こったことは、”起きた”んだから、すべて必要なこと」

 

そしてこれからも「必要なことだけが起こる」

 

 

この価値観を受け入れたとき、あなたのからだは信じられないほどクリアになってくるだろう。

 

 

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