「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

かろやかに嫌えば、美しい。~「ジャッジしない」の本当の意味は~

好きと嫌いに理由はいらない。

 

ただ、好き。

 

ただ、嫌い。

 

そこに、限りない美しさがある。

 

 

 

いわゆる「心のブロック」とか「地雷」を、どんどん取っていって、取り切るとどうなるのか。

 

そこには「個性」が残る。

 

 

ぼくは最近、その「個性」のことを「透明なエゴ」というふうに呼んでいる。

 

それは「ほんらいの自分」と呼ぶこともできるだろう。

 

 

その透明な状態になるとどうなるのか。

 

 

それは「好き」と「嫌い」に理由をつけない状態なんだと思う。

 

好きなものは好き。

 

嫌いなものは嫌い。

 

以上。

 

 

そのシンプルな状態こそが悟りなのに、そこに理由をつけ始めると歯車が狂い始める。

 

「〇〇は嫌い。だって××なんだもん」

 

この「だって~」のあとは、「理由づけ」になっている。

 

 

で、この「理由付け」には「評価」が入ってくる。

 

「〇〇は嫌い。だって汚いんだもん」とか。

 

その場合は「汚い」という「ジャッジ=評価」が入ってくる。

 

 

けれども、そのジャッジは「正しく」はない。

 

間違ってもいないけど、正しくもない。

 

あるものを見てAさんはキレイだと思い、Bさんは汚いと思う。

 

キレイか汚いかは、感じる人しだいなのだ。

 

 

そこが見えていれば、

 

「〇〇は嫌い。だって、汚いように感じるんだもん」

 

という表現になる。

 

これはジャッジしているようで、ジャッジしていない。

 

 

言い換えると「主観的ジャッジ」はしているが「客観的ジャッジ」はしていない。

 

 

そう、問題とされているのは、この「客観的ジャッジ」なのだ。

 

 

なぜなら、ぼくらは主観でしか生きることができない。

 

そもそも物事は「相対的」なんだから、「客観的ジャッジ」「客観的評価」なんて幻想なんだ。

 

 

その幻想に気づけないとき、つまり無明(アホ)なとき、

 

「自分のジャッジは正しい」と証明したくなる。

 

 

そして証明したい渇望がムクムクと出てくると、「理由」を探してしまうのだ。

 

 

そして「理由じみたもの」を見つけ、「自分の客観的ジャッジの正しさ」を「証明」しようとしたとき、ぼくらは苦しみを感じるようになる。

 

 

逆に「主観的ジャッジ」のみが、ここにあるとき。

 

 

つまり「感情」のみがそこにあるとき、それらはすべて美しい。

 

 

ただ、嫌い。

 

ただ、好き。

 

 

そのシンプルな世界は、「どこも変えるところがない」美しさがある。

 

 

だから心理系の世界で

 

「ジャッジするな」とか

 

「ジャッジしてもいい」とか

 

「ジャッジしないほうがいい」とか

 

なんだか混乱しているのをまとめてみると、

 

 

「客観的ジャッジをやめて、主観的ジャッジに集中するとラクになる」

 

ってこと。

 

 

そして主観的ジャッジにこだわり、「好き」を徹底することで、ぼくらの世界はもっと広がっていくんだ。

 

 

で、このメルマガを読むともっと世界が広がっていくんだwwww

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