「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

つけようと思えば、いくらでもケチなんてつけれんだよ。

最近、ちょっと反省したことがあって、それが

 

「おれは、ただの批評家になり下がっていたなー」

 

ということです。

 

 

 

自慢じゃないけど、ぼくは割と論理的矛盾を突くのが得意なほうです。

 

わかりやすく言うと「ツッコミ力」があると思う。

 

 

「それ、おかしいやん!」

 

「そこは、間違ってる」

 

「前に言ってたこととちゃうやんけ!」

 

 

こういうセリフを言い始めたのは今にはじまったことでなく、小学生のころから、そういう「指摘」が得意な子だった。

 

矛盾点とか、「不自然」な点が、自然と目につくタイプなんだね。

 

校正とか得意。

 

 

そんな能力を生かした「ズバズバ系の文章」は「こんな言いたいことも言えない世の中」でウケた。

 

 

ある人は

 

「よくぞ言ってくれた」と。

 

 

ある人は

 

「するどい指摘だ」と。

 

 

ぼくは、そんな評価に喜んだ。

 

自分の能力を世の中に認められたようで嬉しかったのだ。

 

 

しかし次第に、ぼくはその喜びに酔っていたようだ。

 

 

いつのまにか

 

「認められる文章」

 

「喜ばれる文章」

 

「スッキリできる文章」

 

「いいね!が増えそうな文章」

 

を模索するようになっていた。

 

 

そして、最近になり自分を見返したときに、いったいぼくは何をやっているんだろうという気になった。

 

世の中で名の知れたものに、それなりのケチをつけて、もともとそれに反感を持っていた人の共感をもらう。

 

言ってみれば、ぼくの文章はそういう構造になってしまっていた。

 

けれども、「いいね!」がある以上、「ある程度の人数」には求められているんだというエゴがいて、それを捨てきれなくなっていた。

 

しかし、ケチなんてどうにでもつけられるのだ。

 

AをやればBといい、BをやればAと言えばいいだけの話。

 

 

この世に完璧なものなどないのだから、探せばケチをつけられるに決まっているのだ。

 

 

たとえばそれは「よく知らないけど、とりあえず政治でも批判してみるか」という発想に似ている。

 

「やっぱり首相がダメだよな~」

 

とか言っておけば、なんとなく「鋭い」ような気がしてくる。

 

なんの行動もしなくても、「もっとダメなやつがいる」みたいな安心感を得ることができる。

 

 

 

はっきり言って、ぼくはそういう状態に成り下がっていたのだ。

 

 

だからいま、ぼくはここに大いに反省いたします。

 

そして謝ります。

 

 

「いろいろとケチをつけてすみませんでした。

 

すべての批判は、ぼくの内面を投影したものでした。」

 

と。

 

 

そしてこれからはさらに受け入れ度を広げ、ゆるやかに、やさしく、多様な価値観を認めていこうと思う。

 

 

もっともっと、自分の中心をぴたっと合わせるのだ。

 

 

いま、ホ・オポノポノに伝わるフレーズを唱えてみたいと思う。

 

「ごめんなさい」

 

「ゆるしてください」

 

「ありがとう」

 

「あいしています」

 

と。

 

 

ここからまた、おぜっきーは変わっていきます。