「したい」に隠された「ねばならない」を見抜いていく。
「心のブロック」やら「さとり」やら関連のことをやっていくと、かならずと言っていいほど、
「ねばならない」をやめようとか、「べき」という考え方を捨ててみよう、
という「教え」にたどりつく。
その教えの面白いところは、解釈を間違うと、
「ねばならない」を捨てねばならない。
「べき」というふうに考えないべき。
というふうに矛盾をふくんだフレーズになってしまうことだ。
「ダメって言っちゃダメ!」
みたいなwww
そして、「ねばならない」と言ってはダメだというふうに解釈した人が、「アピール好き」だとなおさら面白い。
どうなるかというと、
とりあえず「ねばならない」は捨てました。
「べき」はやっぱりダメですよね~、
ということをアピールしだす。
つまり「できてない」が認められなくて、「できてる」と自他を勘違いさせるためにアピールをしてしまうのだ。
けれども「できてる」という顕在的な意識があると、ぼくらは自分を見つめることをやめてしまう。
そして目線が「自分ではない誰か」に向いていくのだ。
すると、
「あなたは”ねばならない”で動くから苦しいのよ。私なんか”やりたいこと”だけやってるから幸せよ」
というマウンティングになってしまう。
「やりたいことをやりましょう」と
「やりたいことをやりなさい」と
「やりたいことをやってもいい」と
「やりたいことをやらねばならない」と
「やりたいことをやるといいよ」と
「やりたいことをやると幸せだよ」と
「やりたいことやらないと幸せにならないよ」と
「やりたいことやらないのってダサいよね」と
ぜーんぶ微妙にニュアンスが違う。
そのニュアンスの違いは、こころの奥の「あり方」の微妙なズレだ。
その、ふと出てくる言葉の奥にある微かなニュアンスの違いを、自分の中心で感じていく。
たとえばぼくの場合だと
「仕事がしたい」
という欲求にしたがって仕事をしていて、それは「やりたいことをやる」を実践しているようにも見える。
けれども、その欲求をよくよく眺めてみると、実は「仕事がしたい」じゃなくて
「仕事をしなきゃ」
になってるときがある。
けれども、「やりたいことをやるのがいい」」「やりたいことやらなきゃ」と考えていると、
「仕事をしなきゃ」
と考えているとは、自分でも思いたくないし、他人にも知られたくない。
あくまで「やりたいことだけやっている自由で幸せな存在でございます」と自他にアピールしたいこころがあるのだ。
そうすると、こころの奥では「仕事しなきゃ」という義務意識で仕事をしているのに、表面上は「やりたいことをやっています」とアピールする必要が出てくる。
そういうことを続けていると、どんどん「自分の中心」から離れていく。
そして、自分の中心から離れれば離れるほど、エネルギーロスが生まれ、その結果、からだが固まってくる。
からだも呼吸も、詰まってくる。
(ちなみに、そういうときは部屋の掃除がおざなりになってくる)
そして、気づいたときにはそのからだの状態を反映して、成果があがらなくなっており、その事態を観察して、さらに不安になり、さらにからだが詰まっていくという悪循環に入る。
その悪循環から抜け出すコツは、とにかく
「できていない」を認める
ということになる。
「わたし、まだ”べき”や”ねば”をたくさん持ってる」
「まだまだ頑張ってるところあるな」
「やりたいことがわからない」
それでいい。
そういう「未熟である」という意識を持つということ。
そう、あくまで「完璧である」という完全意識は、こころの奥にしまっておけばいい。
いちいち、言うことじゃない。
ふだんから「わたしは完璧」なんて思っている人がいたら、それはちょっとおかしいとぼくは思う。
たしかに宇宙的に観れば完璧なんだろう。
それは知ってる。
けれども通常、生活するうえの意識では、自分に対して
「まだまだだなぁ」
という思いをかかえるのがふつうなのだ。
そして、「そんな”まだまだ”な私が愛おしいなぁ」というのが、ハラ的な「おもい」になる。
それは言い換えれば、
「わたしって素敵」
というレベルから
「こんな私も悪くないな」
という昇華なのである。
そういう、ゆるめの肯定感が生まれてきたらしめたものだ。
そのからだの状態で、やりたいことをハートに聞いてみればいい。
そうすれば、きっと「have to」の状態から「want to」の状態に、また戻ってこられるだろう。
ハラ生き道とは、そういったことを繰り返し、徐々に「自分の中心」からブレなくしていく道なのである。