もっとも強力なリラックス法は「絶望」である。
希望は、ぼくらの心に不安を植え付ける。
希望のあるところには、かならず失望があるのだ。
ぼくらは「希望」が好きで、「失望」がキライだ。
けれども希望と失望は、いつでも表裏一体で、切り離すことができない。
誰かに期待をすれば「期待を裏切られるかもしれない」という不安が頭をよぎる。
「もしかしたらできるかもしれない」と希望を持てば、できなかったとき失望する。
じゃぁ、どうすればいいのかというと、ぞれは
「絶望すること」
なんだ。
文字通り「望みを絶つこと」によって、ぼくらは「本来のあかるさ」を取りもどす。
それは赤子が持つ明るさだ。
「ママのおっぱいが、もっと美味しかったらよかったのに」
「俺は、もっと歩けるはずなのに」
「明日こそ、オムツにうんちをしないように」
乳児は、そんな期待も希望もいだかない。
ただ、そのまんまで生きている。
それは実は「絶望しきった」状態なのだ。
「でも、絶望して自殺しちゃう人もいますよね?」
「絶望したら、”うつ”になったり、苦しくなるのでは?」
と反論したくなる人もいるかもしれない。
でもそれは違う。
たとえば自殺してしまう人は ーぼくは自殺したことがないから推測にすぎないがー 「もっとよく生きたい」という望みを絶てなかったのだと、ぼくは考える。
そう、一般に言われてる「絶望」というのは「極端に望みのすくない状態」であって、実は「望みが絶たれた状態」になっていない。
それが苦しみの原因なのだ。
たとえば「あーあ、フラれちゃった」という”絶望状態”のとき、「まだ好きだ」とか「やっぱり付き合いたい」という気持ちがすこしでもあれば、苦しい。
けれども「好きな気持ち」も「”元サヤ”の可能性」も完全になくなれば、ぼくらは楽になる。
これが、ぼくのいう「ほんとうの絶望状態」なのである。
このとき、ぼくらのからだはもっとも機能的な状態になっていて、かろやかで気分がよく、おそれのない状態になっている。
だから、ぼくらにとってもっとも有効なリラックス法は「絶望」なのである。
「落ち込んでいる人」というのは「絶望の度合い」が足りないのだ。
その場合は、もっともっと自分の「希望」を見つめていく。
かすかな希望の残滓が、くるしみの種になっているのだ。
「のぞむ」とは「望遠」とも言うとおり、つまり「遠くを見る」ということに通じる。
それはすなわち、「足元を見る」ことがおろそかになっているということだ。
「とおく」を握り締めているうちは、「ちかく」に目が行かない。
逆に「遠くのこと」を手放すことができれば、「いま、ここ」の足元にフォーカスできる。
とはいえ、
「その”手放す”ができないんです」
という人も多い。
そんなときは「手放そう」という意識さえも、手放してしまう。
手放せないときは、まだ手放すタイミングじゃない。
絶望できないときは、絶望するまで足掻いてみればいい。
それがいくらカッコ悪くとも、「ゆるく生きる」みたいな教えから外れるとしても、「がんばってるね」とバカにされようとも、そんなことは知ったこっちゃない。
人には人のプロセスがあるんだ。
世間で言われている「流れ」に入ろうが入るまいが、自由なんだ。
そもそも「~しよう」っていうのが期待や希望から来ているんだから、矛盾するに決まっている。
「しよう」「やろう」「なろう」から「ある」へ。
なったら楽だろうけど、まだそのタイミングじゃない人もいる。
けれども、いつかはみんな「絶望」していく。
そして「絶望」とは「感謝」のことなんだ。
「希望」の対義語は「感謝」だ。
「いま、ここにあるもの」の美しさと愛おしさをハラで感じるとき、ぼくらは絶望しきってしまう。
「今」に満足してしまう。
そんな状態が保たれたらいいなぁと思っているが、おぜっきーはまだまだそんなレベルに至らない。
「そんな状態が保たれたらいいなぁ」という希望が絶たれたとき、きっとぼくはもっと楽になるんだろう。
絶望的なLINE@も配信してます(笑)