「なりたい自分」を捨てて「そうある自分」を抱きしめる。
「なりたい!」という渇望が、自分を苦しめる。
「なりたい」=「こうありたくない」っていう否定なんだ。
たとえば「社交的になりたい!」っていうのは、「引っ込み思案な私はイヤだ」という否定なのです。
「もっと可愛くなりたい」は「可愛くない私」の否定です。
「もっとすごい人になりたい!」は「すごくない自分」への否定です。
そして、その否定の気持ちが、すなわち「苦しみ」なのです。
はっきり言って、「なりたい」なんていう気持ちは捨ててしまったほうがラクだ。
それよりも「そうある自分」を抱きしめてみてほしい。
あなたが今、「そうある」のは、「そうある」だけの理由があったはずだ。
たとえば、うまく笑えなくなってしまったのは、誰かに傷つけられたからかもしれない。
パートナーとの関係性がうまくいかないのは、親に心理的に虐待されていたからかもしれない。
自分をうまく表現できないのは、誰かに抑えつけられたからかもしれない。
いずれにせよ、「今のあり方」になっただけの「理由」があったはずなのです。
そして、そのあたりを、ゆるしてみてほしい。
「あんなことがあったから、仕方なかったよね」
「あんな出来事があったら、そうなるのも当然だよね」
「そんな言い方されたら、普通はそう感じるよね」
と、「今のあり方」に至った自分を順番にゆるしていくんだ。
それから、その「出来事」じたいについても、ゆるしていく。
「私が『仕方なかった』ように、あの人も『仕方なかった』んだ」と。
あのとき、あんな言い方をしたあの人も、「仕方なかった」。
あの日、あんなことが起きたのも、「仕方なかった」。
あの人が、あんな振る舞いをしたのも「仕方なかった」。
そのゆるしはつまり、
「私もあの人も未熟だったけれども、お互い、そのときの”一生懸命”だったんだ」
という受け入れ方なのです。
そう、ぼくらはご存知のとおり、完璧じゃぁない。
けれども、その完璧じゃないぼくらはぼくらなりに、一生懸命なのです。
たとえ「あの人」がサボっていたり、怠けているように見えても、それはその人なりの一生懸命なのです。
そのことがハラ落ちしてくると、「こうある自分」というのもゆるせてくる。
つまり、
「できているかどうか」
「スゴイかスゴくないか」
「うまくいっているかどうか」
ということを基準にしない。
唯一、モノサシにするのは
「一生懸命かどうか」
ということなんです。
ぼくらは、その「一生懸命さ」にこそ価値があるのです。
だから、唯一、そこだけを見ていればいい。
そうしたら「そうある自分」をきっと愛せる。
「でも、私は一生懸命ですらありません・・・」
そう嘆くあなたは、一生懸命になれる何かを一生懸命さがしているじゃないか。
そして、一生懸命に迷って、一生懸命に悩んで、一生懸命に考えている。
もう、ぼくらはそれだけで充分なんだ。
あとは、その美しさに気づくだけなんだ。
「そうあるあなた」が、いま、ここで動く一挙手一投足にすべての美しさが凝縮されている。
「そうあるあなた」が、いま一生懸命に呼吸をする。
それが美しさのすべてだ。
その美しさは
どんなに誰かを憎もうとも
酷いこと、ズルいことを考えようとも
どんなにみじめで情けない醜態をさらそうと、
けっして奪われることはないんだ。
なぜなら、一生懸命の美しさは、はじめからぼくらに備わっているものだから。
だから、もう「もっと輝きたい」とか「あの人みたいになりたい」とか「もっとスゴくなりたい」とか考えなくていい。
あなたは、いま、あなたなりの一生懸命なんだ。
だから「できた/できなかった」にフォーカスしないで、いま、「そうある自分」を心から抱きしめてみてほしい。
そこに、未熟でカッコ悪くて、みじめでショボいけれども、そこはかとなく愛しい自分が浮かび上がってくるはずだ。
「そうある自分」は、それ以上でもそれ以下でもない。
「よく、がんばってきたね」
「そうある自分」にそう言えたとき、ぼくらの苦しみの旅は終わるんだ。