「稼ぎたい」って人から不安を取ると、何も残らない件。
あくまで、ぼくの個人的な体験なんだけれども、これまでに純粋に「稼ぎたい」っていう気持ちを持った人に出会ったことがない。
「稼ぎたい」という気持ちが表面に出てきている人は、かならず内面に何かしらの変化がある。
かなりの割合を占めるのが、「不安」である。
老後の不安でもなんでもいいけれども、とにかく「不安」とか「おそれ」を解消する手段として「お金がほしい」という気持ちが出てくるようだ。
また「不安」の独特なあらわれ方として、「すごく見られたい」というのがある。
「自分」の存在を誇示する。
「どうだ」と見せびらかしたい。
自分に対して「これだけ稼いでいる」と納得させる。
これらはすべて「不安」の変形ヴァージョンで、もとは「自分はここにいてはいけないのではないか」という漠然とした「おそれ」に端を発している。
今よりもがんばっていたころのおぜっきーは、そのどちらも持っていた。
稼いだ金額によって自分の存在を示したいし、かつ、「生活がどうなるのだろう」という不安をつねに抱えていた。
はっきり言って、「稼ぎたい」というハラの声はない。
もし、「稼ぎたい」というハラの声が聴こえるというなら、「何の価値もなくても、”お札”か”コイン”そのものが好き」という場合だけだろう。
つまり、アートや芸術作品としての「お金コレクター」だけが、「純粋にお金が欲しい」というハラの声が聴こえるはずだ。
だから、「稼ぎたい」という気持ちが出てきたときは、要注意。
それはかならず、ダミーの欲求なんだ。
もし「稼ぎたい」という気持ちが出てきたら、それを抑える必要はない。
「自分は稼ぎたいんだな」ということを、充分に感じる。
それから、内側に入っていく。
「この気持ちはどこから来ているのだろう」と。
自己証明なのか、不安なのか。
それを見つめていく。
すると、意外な答えに出会うかもしれない。
それは「知らない自分」に出会うことだったりする。
けっきょくのところ、「お金」というのは、「やりたいことをやる」ための手段でしかない。
「稼ぎたい」に惑わされる人は、きっとこの「やりたいこと」に出会っていないんだろう。
とはいえ、この「やりたいこと」に出会うというのは、生半可なことではない。
とくに、このマトリクスの③に当たる人は、自分では「やりたいこと」が見つかりにくい。(個人よりもグループが向いている。)
参考記事
そして、この「やりたいこと」をやる仕組みを、ハラの声に従って深めていく。
たとえば、ヨガを教える人なら、毎週1回教えたいのか、週3回のクラスにしたいのか、月1回の指導にしたいのか。
個人指導がしたいのか、10人に教えたいのか、100人に教えたいのか。
その答は、みんなハラの奥にしまってあるんだ。
その「答え」を引っ張り出すということ。
ハラ生き道とは、そういうことです。
ちなみに、みんなが迷う料金設定も、答えはハラが知ってるよ。
それも上記2番と3番によって、現実的な設定が変わってくる。
それはまた次回に書いていきます。