不安な人は傲慢な人。
不安っていうのは、エゴに乗っ取られている状態だ。
エゴの別名は「小さな自分」、つまり自我。
たしかにこの世を生きるのに、エゴはスパイスとして必要なんだけど、こいつに乗っ取られちゃうと、かなりシンドイ。
とりわけ「恐怖」が拡張されやすい。
エゴは、「自分が正しい」といつも考えている傲慢な存在だ。
そして大して先読み能力もないくせに、自分の「未来の読み」は当たるとタカをくくっている。
「これから先は、こうなってこうなってこうなるんだ」
「あの人は、こう思っていて、次はあれをするだろう」
「きっと、将来こうなってああなって、そんなんなっちゃうんだ」
と、どんどん「先読み」していく。
けれども、エゴは「小さな自分」だけに、脳みそも小さい。
つまり、先読み能力なんて、持ち合わせてはいないのだ。
けれども、エゴは「いや、自分は間違っていない」と言い張る。
「俺の思ったとおりに、未来は進んでいくんだ」
と根拠のない自信を持っている。
そんな傲慢なエゴに支配された人はどうなるか。
もちろん、「傲慢な人」になってしまう。
つまり、「自分の予測した未来のとおりになるだろう」と考えるのだ。
すると、そこに不安が生まれる。
「2011年に東北で大地震があった。こないだは、九州で地震があった。次は名古屋だ。ヤバい!!」
「今月は売上50万。先月は60万。あと、半年で売り上げゼロになってしまう!ヤバい!」
「なんか最近、咳が止まらないな。これってもしかして肺がん?ヤバい!」
とあえて極端な例を出してみた。
こうやって冷静に眺めてみると、
「おいおい、それどんな根拠だよ!」
ってツッコミたくなるのだが、エゴに支配された傲慢な人の耳には届かない。
「いや、ゼッタイ次は名古屋に地震くるって!」
「マジで、このままでは倒産する。もうダメだ。死ぬしかないか…」
「ヤバいわ、肺がんだわ。遺書ってどうやって書くのかな…」
と、エゴ的発想の不安がどんどん膨らんでいく。
この不安のことを妄想と言います。
禅には「莫妄想(まくもうぞう)」といって、「妄想する莫(な)かれ」という教えがあります。
これは「不安などの妄想に捉われるな」という意味だと解釈しています。
で、この「妄想」が生まれてくる原因としては
「自分がなんとかしている」っていう勘違い
があるんですね。
アホなエゴが「俺がここまで頑張ってきた」って言い張ってる状態です。
まったくアホ野郎です。
じゃぁ、エゴに問います。
心臓止めてみろよ。
呼吸を1時間止めてみろよ。
インドに今から生まれ変わってみろよ。
食べ物の消化をストップしてみろよ。
筋肉を、思い通りに動かしてオリンピックで優勝してみろよ。
・・・
できないやろ?
そう、エゴちゃんにはさ、「できないこと」ばっかりなんだよ。
とくに「生きる」ということの根幹にかかわる部分に関しては、まったくタッチできないことのほうが多いんだよね。
そこ忘れんなよな、エゴちゃんよ?
「そこ」を忘れることを傲慢と言います。
逆に、「そこ」を思い出すことを「謙虚」と言います。
ぼくらは「謙虚」になると、自然と感謝の気持ちが生まれてきます。
だって、「できないこと」だらけなんだからね。
なのに、「ちゃんと生きてる」んだからね。
不安になるのもいいけどさ、まずは「そこ」思い出してみようよ。
いや、分かるよ?
この先、何が起こるか分からないから怖いでしょう?
それは分かるんだけど、あまりにもお前の存在は「小さい」のよ。
だからもう、あきらめてちょうだいよ。
未来のこと、分かったフリするのはやめなよ。
ってか、「分からないから面白い」んじゃん?
だからさ、「この先、何が起こるか」じゃなくて、「いま、何が起きてるか」に目を向けてみない?
そしたら、そこにはタッチもコントロールもできない、素晴らしきオートマチックな世界が広がってるんだよね。
その「大いなる流れ」への畏敬とか畏怖だよね。
「まじスゲーな」って感じ。
その感情こそが、感謝になると思うんだ。
そこにフォーカスしてたら、エゴちゃんの声に耳を貸すのがアホらしくなっちゃうんだよね。
つーことは、
「(いま自分と認識している)自分」はアホだ
ってことに気づくことが、大いなる叡智に気づくコツでもあるんだよね。
自分がバカだと気づくと、本質的に賢くなっちゃうっていうパラドクス。
でも「自分が正しい」ってのを握りしめてるあいだは、なかなか、そこんとこ手放せないんだなぁ。
手放せないのは、アタマもカラダも固いからなんだね。
身体が緊張してる。
リアルに握りしめてる。
だから、そういう思い込みとか「ただしさ」とかをカラダから解除していこうぜっていうことなんだよね。
ハラ生き道というのは、そういう方法論です。
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