いつまで「養殖された人間」を続けますか? ~生け簀で飼われる人々~
これからは、「天然の人間」に戻っていく時代なのである。
キレイに養殖されたことに価値を置く時代は、終焉を迎えようとしている。
養殖されたものというのは、とかく「キレイ」だ。
きちっとしている。
均等である。
品質に差がない。
魚にしても果物にしても、「ある一定の基準」から外れないものが、素晴らしいもの、高級なものというふうに認識されている。
そしてぼくらも、長いこと文化や教育という名のもとで、「養殖」されてきた。
きちんとしているのがいいこと。
きちんとお勉強できるのがいいこと。
きちんと会社に入るのがいいこと。
きちんと結婚してきちんと子供をつくるのがいいこと。
そういう価値観によって、ぼくらは「便利な人間」へと仕立て上げられてきた。
けれども、もうその洗脳に気づいてもいい時期だ。
ぼくらは、何を学ばずとも、もともと内側に「すごいもの」を持っているのだと。
人生に決められたレールを引かれなくとも、堂々と歩いていけるのだと。
これまでに「養殖の生け簀」からハミ出た人間は「劣等生」とか「ダメ人間」と呼ばれてきた。
養殖の「枠」にハマれない。
養殖されたものの、「きれいなカタチ」に育たなかった。
養殖によって枯れてしまった。病気になってしまった。
そんななかで「きちんと均等なサイズになって出荷されないのならば、価値はない」とレッテルを貼られてしまった。
けれども、本来は養殖されるほうが異常なのだ。
本来の天然のエネルギーがあれば、養殖の生け簀など、苦しくて仕方がないはずなのだ。
ぼくらは今、意図的にエネルギーを抜かれ、養殖され、飼いならされ、「ほんとうの世界」を見られぬようになっている。
「競争」によって、力が削がれるようになっている。
大地や宇宙との「つながり」を分断され、エネルギーが供給されないようになっている。
「ストレス発散」の文化によって、エネルギーを浪費するように仕向けられている。
そうやって「天然のパワー」に気づかないようにされている。
だからこそ、きれいな枠や型にハメられ、「それなり」に整えられ、「常識」を教育される。
そして「天然のパワー」を発揮しようとすると、ディズニーの「リトルマーメイド」のセバスチャンが人魚姫アリエルに、
「海の底が幸せだよ。陸に行こうなんて考えるな」
と諭したように、自分の枠に閉じ込めようとしてくる人が出てくる。
しかし!
もう、「ほんらいのあなた」は限界のはずだ。
この「閉じられた世界」から飛び出したくて仕方がないはずだ。
アタマで生きていても、「どこか違う」って違和感を感じているでしょう?
「このままでいいのか」って、心のどこかで思っているでしょう?
それは「このままでいいわけない」とハラが気づいているからなんだ。
いま、「閉じ込められた」状態から、飛び出そうとする人が増えている。
今までに言われていた「幸せ」とぜんぜん違う幸せがあるんじゃないかと気づきはじめる人が、急速に増えている。
つまり「アタマ的な」「物質的な」「相対的な」豊かさや幸せから、「ハラ的な」「精神的な」「絶対的な」豊かさや幸せにシフトしてきているのだ。
いま、あなたのアタマがどう考えているとしても、ここまでこの記事を読んでしまったということは、あなたのハラが
「もう常識の世界から飛び出たいよ!」
と叫んでいるということだ。
ぼくは断言する。
あなたのハラは「天然の世界の喜び」を観たくて仕方がないんだと。
すべての個性がのびのびと咲き誇り、自然と人がまじりあい、人と人が愛し合う、そんな世界を観たいんだと。
さぁ、そんな世界から、今の自分、今の生活を見直してみてほしい。
「常識的」と呼ばれる世界は、あまりにも不自然ではないだろうか?
人と人がいがみ合い、競い合い、勝ちを求め、自分の「得」のために動く。
時間に縛られ、お給料に縛られ、人間関係に縛られる。
そんな「常識的」な生活のなかで、いまわの際に「生ききった」と言えるだろうか?
さぁ、いまこそ安全な生け簀を捨てて、大海へと戻るのだ!
否、生け簀はけして”安全”などではない。
「安心・安全な生け簀のなか」と思ったら、ある日、とつぜん食われる運命なのだ。
それならば、命を賭して大海へと飛び出るんだ。
飼いならされ、いいように食われるならば、自ら危険へと身をさらせ!
ぼくらはもう新しいことを知ったり、学んだりする必要はない。
すべては「自分」の内側にある。
大切なのは、その「自分の内側」を動かし、「自分の内側」と対話し、「自分のエネルギー」を引き出し、「自分の内側」と同化する方法を実践することだ。
「自分と出会うやり方」は自分に聞けばいいけれども、「どうしてもそれができない」など困っている人は、一度おぜっきーに会いにきてほしい。
なにかしらのヒントはお渡しできると思う。