「受け取る勇気」とは「引き受ける覚悟」である。
プラスなもの、「良いこと」、ポジティブなもの。
そういうものに、目を向けるのはよいかもしれない。
けれども、「それだけしか欲しくない」という思いは、苦しみを生み出す。
「受け取る」ということが流行っているので、おぜっきーもハラ的に解釈してみたいんだけれども、
「受け取ります!」って”宣言”しても受け取れない人がいるんだよね。
それって、なんでだと思う?
それは、「受け取ります!」の内容が「(良いことを)受け取ります」になっているから。
お金を受け取ります!
恋人を受け取ります!
愛を受け取ります!
なぜ、こういう宣言にウサンクサイ「奪い臭」をぷんぷん感じてしまうのか。
それは「引き受ける覚悟」を感じないから。
つまり「プラスの側面だけ、オイシイ感じに持っていこう」というズルさを感じるから、どこかキモチワルイのだ。
じゃぁ、「引き受ける覚悟」って何か。
それは
病気を引き受けます!
破産を引き受けます!
離婚を引き受けます!
という「ネガティブも受け入れる!」という覚悟なのだ。
この、一般に「ネガティブ」と言われる出来事を受け入れてはじめて、「受け取り宣言」というのが活きてくる。
いま、上に書いた「病気」とか「破産」とか「離婚」という単語だけで、
「うわっ、ネガティブワード」
「ネガティブなことにフォーカスすると、そのできごとが起きちゃう!」
「マイナスなことはイメージしたくない」
という不安や抵抗感が出てくるのなら、それが「受け取り」ができない原因だ。
「受け取り」というのは、ハラ生き道でいうと、カラダをクリアリングして「受け流す」ってことなんだよね。
ハラ的には、所有ってのはありえないんだよ。
すべては循環だから。
だから受け取っちゃダメで。
ダメっていうか、「貯まる」ってことに価値を置いてないというか。
ブッダがさ、悪口を言われたときに
「贈り物を渡された人が受け取らなかったら、それは誰のものか?」
みたいな感じで、見事にやり返したエピソードがあるでしょう?
あれだって悪口を「受け取らなかった」んじゃなくて、「受け流した」んだよね。
で、それはブッダのカラダがクリアだったからなんだね。
それがさ、カラダが詰まってる状態なのに怒りを抑えて
「こなくそ~!!」と思いながら「オトナ対応」してたら、ストレスがたまるんだよ。
(ちなみに「オトナ対応」ばかりしてる大人の背中はマジでガチガチです)
その場にいたお弟子さんは「ブッダ様!なぜ言い返さないんですか!」と悔しがったというので、ブッダに比べるとカラダがクリアじゃなかったんだね。
つまり
「悪口を言われて言い返さなかったら、それが事実を認めてしまう」とか
「悪口を言い返さなかったら、負けてしまう」という
不安があったということになるわけ。
だもんで、ちょっと話がそれたけど、
「幸せを受け取る」ってことはさ、「不幸に対してもカラダがゆるんでる」ってことなんだよ。
それは「不幸が怖くなくなる」ってことなんだよね。
イコール「なんでもこい」っていうハラなんだよ。
で、その「なんでもこい」の度合いによって、やってくる「幸せ」の度合いも決まるるんだよね。
けれども、「なんでもこい」の覚悟が決まったころには、一般的にいう「不幸」でさえも愉しめる状態になってるから、それほど「幸せ」に執着してないんだよね。
それを「幸せを手放す」「幸せをあきらめる」と言います。
そうすると「なくならない幸せ」に近づいてくるんだよね。
ただ、そういう感性になるには、そういうカラダになる必要があるわけ。
アタマでやったら、ただの「ガマン」になっちゃうからね。
だからカラダを整えていくことが大切になるんだけど、そのときに「がんばる方向」でやると「がんばるカラダ」を作っちゃうんだよ。
けど、「不安や不幸を受け流すカラダ」ってのは、「リラックスしたカラダ」なんだよ
ね。
いや「いつでもどこでもリラックスできるカラダ」って言ったほうがいいね。
そういうカラダを養っていくことで「引き受ける覚悟」もついてくるんだ。
まぁ、もし興味があれば、セミナーなんかに来てちょうだいな♪
家で「あーでもない。こーでもない」って考えてても仕方ないからね。