「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

パワースポットは「パワーを奪う場所」じゃなくて「パワーを差し上げる場所」

「パワースポット巡り」なるものをして、なんかすごいエネルギーをもらおうという気分も分からないではない。

 

神さまから「ご利益」をいただいて、「運をよくしよう」というのも分からんではない。

 

 

けれども、たまにはゆっくりと、そんな行動の「ウラ」について考えてみてもいいかもしれない。

 

 

 

ぼくは最近、自分のカラダをもっとも浄化する方法を考えついたんだけど、それが

 

「自分のいる場所と、そこにいる人たち全員を浄化するつもりで呼吸する」

 

というものだ。

 

 

浄化っていうと分かりにくいけど、「幸せでありますように」と願うってことだね。

 

 

 

たとえば電車のなかにいたら、電車とその乗客を。

 

居酒屋にいたら、そのお店とお客さんを。

 

散歩をしていたら、目の前の家とその家族を。

 

 

 

ゆっくりとイメージして、その人が浄化され、そこにいる人も幸せになる。

 

そんな呼吸をしていく。

 

 

 

で、実際にはぼく程度の力で、その場がどれくらい浄化されるかは分からない。

 

まったく何の効果もないかもしれないし、誰かがほんの少し幸せになっているかもしれない。

 

 

ただ、けっきょく他人がどうなるかということは、「どうでもいいこと」なんだ。

 

大切なことは、その場所とそこにいる人を浄化すべく呼吸することで、自分がいちばん幸せになっちゃうってことなんだよね。

 

 

そう、「もっとも与えたものが、もっと幸せである」っていう言葉がいまパッと思い浮かんだんだけど、まさにその通りだと思う。

 

 

 

その意味で、パワースポット巡りっていうのはさ、「奪う発想」が元になってると思うんだよね。

 

 

「え?神さま? いいじゃん、エネルギーいっぱい持ってるんだから、すこし分けてよ」

 

っていう発想は、乞食の発想だ。

 

 

その意味では、神社にいって何をするかというと、「神社を浄化する」という考えが面白いかもしれないと考えている。

 

 

たしかに、丁寧に管理され、すみずみまで掃除され、ぴかぴかに浄化されている神社もあるだろう。

 

 

けれども、たとえば昨日いった神社なんかは、誰か管理しているのかな?というレベルで、とうてい「丁寧に管理されている」という状態ではなかった。

 

 

そのせいか、どこか物悲しい雰囲気が漂っていた。

 

 

そんなとき「パワースポット巡り」をする人であれば、

 

「ああ、ここはパワーがないから次のところへ行こう」

 

という発想になってしまうだろう。

 

 

けれども「神社を浄化する」という発想であれば、

 

「遊びにきましたよ。微力ながら浄化させていただきますね」と「祈り」をすることになる。

 

 

そしてそのとき誰がいちばん得をするかといえば、お祈りした自分なのである。

 

 

もし「パワースポット巡り」の発想で、

 

「ちぇっ、パワーないのかよ」

 

と不満を感じるとすれば、それがストレスとなり、そのストレスが自分をむしばんでしまう。

 

 

その意味で、エゴの損得発想で考えても「パワーをもらう」よりも「パワーを差し上げる」発想のほうが、「得」できるということになる。

 

 

だからもし「パワースポットにいって運をよくしよう」という発想になっている人は、ちょっと考え直してみてもいいかもしれない。

 

 

そもそも「運をよくしよう」という発想じたいが、「自分は運が悪い」という想念から来ているからね。

 

 

まぁ、だいたい「パワースポット巡りで運をよく」っていう発想は、不安から来ているんだよ。

 

 

「悪いことが起きませんように」

 

 

って、「いいこと/わるいこと」のジャッジメントをしてるんだけど、まずはその価値観に気づいていくほうが大事なんだよね。

 

 

そのうえで、パワースポット以上にGスポットを大切にするといいよね。