どんなにショボいあなたでも、偉そうに発言する権利がある。
「私なんかが、そんな書くことないよ…」
情報発信していくときに、そんな自己卑下で書けなくなってしまう人がいる。
いや情報発信だけでない。
セミナーなど誰でもできるのに、
「私なんかに、教えられることないよ」
「こんな情報、誰でも知ってるよ」
「こんなことに価値ないって」
と自分を低く見積もってしまい、活動できない人がいる。
けれども、それは実にもったいないことなのだ。
古い社会では、「ヒエラルキー」が大事にされていた。
教祖さまが一人いて、そこから「偉い人」がいて、平民がいて、下僕がいる。
みたいなピラミッド構造が、「ふつう」であり常識だった。
けれども今やそのヒエラルキーは崩壊し、世界はフラットになってきている。
しかし、人々の心にはまだまだヒエラルキーの「意識」が深く根付いているようだ。
「私なんかが…」と自分を傷つける人は、ほぼ例外なく、この「ヒエラルキー意識」を手放せないでいる。
たとえばそこにはアタマ的な「数の論理」が働いている。
あの人は、SNSで「いいね!」の数が多いから。
あの人は、たくさんのクライアントを抱えているから。
あの人は、実績も経験も収入もスゴイから。
だから一体なんなんだ。
「あの人」の”数”がどれだけスゴイからといって、あなたの価値に何か関係があるとでもいうのだろうか。
否!
何も関係がない。
「あの人」がどれだけ多くの”数”を稼ごうとも、あなたの「価値」とは何もリンクしていないのだ。
たしかに、「あのスゴイ人」の話が響く人もいるだろう。
けれども、「あのスゴイ人」の話は響かなくて、あなたの話が響く人というのは必ずいるのだ。
とはいえ、ヒエラルキー意識にとらわれているあなたは言うだろう。
「私の話なんて、聞きたい人いないって」と。
そう思いたいなら思えばいい。
そうやって、自分を殺したいなら殺せばいい。
けれども、あなたの発信に救われ、心温まり、助けられる人は絶対にいる。
ただしそれには、たった一つだけ条件がある。
それは
「体験したことのみを語る」
ということだ。
「体験していないこと」や「体感していないこと」ほど、空虚なことばを紡ぐものはない。
上っ面な上滑りのことばを見ると、ぼくは吐き気がする。
逆に、どんなことであっても「体験」からつむがれる言葉は、人の心を打つ。
それは、どんな体験だろうが全く関係がない。
すべての「体験」が、すべて等価値なのだ。
つまり大社長の話には、それなりの価値があるけれども、ニートの話にもそれとまったく同じ価値があるということ。
成功談が参考になることもあれば、失敗談が参考になることもある。
あなたは、自分のことを「ショボい」と勘違いしているかもしれない。
「客観的に考えて」
「数字で考えて」
「実績で考えて」
自分のことを「大したことないやつ」ととらえているかもしれない。
しかし、それは大きな勘違いなのだ。
すごい人も、すごくない人も、まった同じ価値があり、素晴らしいのだ。
もし違いがあるとすれば「体験」をどこまで味わうことができたか。
そして、どこまで自分を見つめることができたか、ということだけが発信の「質」の違いになってくる。
たとえば、ただ水を飲むということも、丁寧に、一瞬一瞬を感じながら飲めば、何かひとつは発信することができるだろう。
たとえば、ただ呼吸することも、丁寧に見つめてみれば、それだけで本が書けるだろう。
そう、これまでの実績など、人間の価値に何も関係がないのだ。
「人の面白み」というのは、「どれだけ内側から観察できたか」によって決まると、ぼくは思う。
その意味で、数字的に大したことがないあなたにも、めっちゃ偉そうに発言する権利があるのだ。