「負ける」ことを受け入れると、カラダが満たされる。
もしかすると、あなたの悩みは
「負ける」
ことで解決するかもしれない。
「負けたくない」という執着は、ぼくらの中でも割と大きいものだ。
もちろん、この「負けたくない」によって努力し一定の成果を得ることはあると思う。
けれども、どちらかと言うと「負けたくない」っていう執着によって、「要らないもの」まで掴まされてる可能性もある。
アタマに身体を乗っ取られると「勝つ」ということだけに価値があると感じる。
「勝つ」ことは素晴らしく、気持ちよく、美しいことなのだと。
そして「負ける」ことは醜く、不快で、ぶざまなものだと。
それがジャッジするアタマの価値観なのである。
すると、ぼくがハラの世界で求めている「なくならない幸せ」からは遠ざかってしまう。
なぜなら、勝てば勝つほど、負ける不安が大きくなるから。
そして勝つことにより敗者を見下す。
そして、勝っても勝っても、いつかは負けてしまう。
そう、「勝ち」を求めるゲームは、永久に不安で不満を抱くことになるのだ。
もちろん、それが好きならやればいい。
勝負ゲーム、勝敗ゲーム。成功/失敗ゲーム。比較ゲーム。
やりたいなら、やりたいだけやればいい。
けれども、そのゲームから下りてしまうことも選択のひとつなのだ。
勝負ゲームから下りるゲームもまた、一興なのである。
なぜならアタマは、勝負ゲームから下りたつもりなのに、
「はい、私のほうが勝負ゲームから早く降りましたー!」
「いや、おれのほうが勝負ゲームから遠ざかってますー!」
「え?わたしはそんなゲームとっくに卒業しましたけど?」
と新しい勝負ゲームの土俵を創り出すことがあるからだ。
よほど自分のマインドを注意深く観ていないと、「比較」の世界からは、そうそう抜け出せない。
むしろ「抜け出した」と思っている人のほうが、落とし穴に入っていることのほうが多いくらいだ。
それだったら、勝負・比較ゲームにどっぷり浸かっているほうが、まだマシなのである。
「負ける」世界は、思った以上に奥が深い。
「負ける」とは「まかせる」ことだ。
力を抜き、受け入れ、ゆるむことだ。
それは他人からの暴言も誹謗中傷も、すべて「ゆるす」いうこと。
「あいつが何と言おうと気にしない」とか
「批判するってことは大好きなんですね」とか
「好きに言わせておけばいい」とかを
口でいうレベルではなく、
「気にならない」という段階に引き上げることだ。
あなたは今「負けたくない」という執着によって、自らの「遊びごころ」を殺してしまっているかもしれない。
「負けたくない」という思いによって、「愉しさ」を失っているかもしれない。
けれどもここで思い出してほしい。
「ほんとうは何がほしいのか」を。
あなたは本当に、「勝ちたい」のだろうか。
あなたは相手を「打ち負かしたい」のだろうか。
相手を「ぶっつぶしたい」のだろうか。
おそらくハラに訊けば、そんな答えは返ってこないはずだ。
ハラはきっとこう言うだろう。
「そんなんどうでもいいやんけ」
「ほっとけよ」
「負けても損しないし、損してもいいよ」
と。
もし「負けたくない」に固執して、いちおう「勝利」をもぎとったとしよう。
しかし、そのとき満足するのはアタマだけなのである。
そう、勝つことでエゴは納得するが、けっきょくハラの幸せは分からずじまいで、さらなる不安を抱えることになるのである。
ぼくらが「なくならない幸せ」や「大安心」を得るには、ハラで行動し、ハラでつながるしかない。
ぼくらは「勝つ」ことでは、「ほんとうの安心」にたどりつかない。
「勝ってる」という人の顔を見てみればいい。
人生の勝者、成功者という人を観察してみればいい。
その笑顔の奥に、不安が宿っているのを見るでしょう。
「次も負けないように」とがんばっているでしょう。
「この勝ちを褒めたたえてくれ」と評価を欲しがっているでしょう。
誇らしげな胸板を、むなしく見せびらかしているでしょう。
それは、身体が満足していないからだ。
カラダが満たされていないから、不安を抱えているし、その反動で威張ってしまう。
人は勝って、大きくなって、増えても満たされない。
なぜなら「比較」の世界は、分離・分裂・分析の世界だからだ。
人が満たされるのは、誰かと「つながった」ときだけなのだ。
それはつまり比較・勝負の世界から下りるということ。
「負け」を認めるということ。
その世界に入って、「つながり」を充分に味わったとき、ぼくらははじめて「満たされる」のだ。
さぁ、あなたはどちらの世界を愉しむ?
勝負・勝敗・比較の世界?
それとも、
遊び、つながり、愉しさの世界?
それはあなたが自由に選んでいい。
ハラの世界に来たい人は、↓を読んでみるといいかもしれない。