「ガッカリされる恐怖」を乗り越えると、またひとつ自分を好きになれる。
ぼくらには「ガッカリされる恐怖」ってあるのよね。
これは「失望」に対する怖さなんだよ。
これはさ、親の期待に応えてきた人に多いと思うね。
優秀な子。
素直な子。
マジメな子。
もう初っ端から、親も先生も期待してる。
この子なら、ルールを破らない。むしろほかの子を注意してくれる。
この子なら、宿題を忘れない。
この子なら、点数が取れる。
そういう期待に応えることが生きがいになっちゃうことってあるんよね。
そうすると「やりたいことをやる」のが死ぬほど怖くなるわけ。
なんでかって、「期待に応えられない」かもしれないから。
親や先生に「褒められる」ことがすべて、っていう状態で、「相手からの期待を手放す」ってできないのよ。
申し訳なくて。
それってつまり「相手の期待に応えられない自分には価値がない」って感じてるからなんだよね。
そうすると面白いことに、相手も「ガッカリする顔」で、こっちをコントロールしてくるのよね、無意識的に。
「こいつには、ガッカリする顔を見せれば、コントロールできる」って、意識下で感じるの。
「先生、宿題わすれました」
「ああ、そうなの(がっくり)」
「お母さん、〇〇をやってみたいんだけど」
「え?なんでそんなこと!(がっくり)」
もうこれだけで、子ども心は折れてしまう。
優秀な子、素直な子ほど、親の「がっくり顔」には耐えられない。
親のかなしい顔が見られない。
ぼくが、わたしが、がんばりさえすればお母さんは笑顔なるんだ。
と、けなげに背負ってしまう。
すると、それは社会に出ても、なかなか変わらないの。
上司の期待に応えようとしちゃう。
顧客の期待に応えようとしちゃう。
もちろん、それは社会的アタマ的には「いいこと」。
だから、実績も成果も出るし、評価も高くなる。
年収も高いかもしれない。
けれども、どこか苦しい。
そりゃそうだよね、自分を殺して、上司やお客さんの期待に応えて評価されても、愉しい感じはしないはずなんだ。
その状態で感じられるのは、「成果が出た達成感」のドーパミン的な喜びだけなんだ。
でもそれは、「アタマ的な喜び」だし、「一時的な喜び」なんだよね。
もちろん、それも喜びの一種なんだけど、ハラの世界で求めるのは、そういうものじゃなくて、もっと穏やかなセロトニン的オキシトシン的な喜びなんだ。
そして、その喜びは、見つければ見つけるほど大きくなる「なくならない幸せ」なんだよね。
で、その方向にいくには、どうしても「失望される」とか「ガッカリされる」という経験が必要なんだよね。
おぜっきーも、こないだ「見そこなった」て言われたんだよ。
けど、それ言われるまで「それを言われるのが怖かったんだ」ってことにすら、気が付かなかった。
だから、ほんとうに無意識下で、「失望される」のを恐れていたんだよね。
言い換えれば「期待に応えよう、期待に応えよう」ってがんばってた。
でも、やっぱり生きるってことは、誰かの期待に応えるってことじゃないのよね。
自分のハラの喜びをストイックなまでに追求するってことなのよね。
で、それをやっていくとどうしても、
「そんな人とは思わなかった」とか
「ガッカリです」とか
「期待はずれです」とか
一時的に言われちゃうのよね。
でもそれって、「ハラ生き」がさらに進んだ証拠でもあるんだよね。
「ハラ生き」が進んでくると、あなたに”期待”している人は去っていきます。
その内心は「使えねぇな、こいつ」です。
ヒドイよねwww
マジで、「いや、お前のために生きてねーし」って感じだよね。
で、どうしてもそのセリフを言わねばならんときもあるのよ。
もちろん、今までどおり期待に応えて「かしこまりました!」って言っていれば、波風立たないんだよ?
でもさ、それって自分を苦しめてまでやることじゃないじゃん?
WIN-WINになっていればいいけどさ。
実は「奴隷あつかい」されてんのに、ニコニコしてることないじゃん?
だからさ、言ってやろうぜ。
「いや、アンタのために生きてるわけじゃないから」
「それって、自分に都合いいだけじゃね?」
「善人ぶって、コントロールするのやめてくれ」
って。
そして、どんどん失望されて、ガッカリされよう。
相手の期待を、へし折ってやればいい。
そしたら、そんなカッコいい自分のことを、さらに好きになっちゃうよ。