「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

人は”美しく甘える”ために、自立するのだ。

ぼくらが、「なくならない幸せ」を手にするためには、「自立」する必要がある。

 

 

しかし、「自立」の定義があいまいだったり、それを誤解していたりすると、いつまで経っても苦しい。

 

 

じゃー、「ラクになる自立の定義」って何なのかというと、それは

 

「美しく甘えられること」

 

なんだと思う。

 

 

 

「美しく甘える」

 

それは期待なく、甘えること。

 

信じきって、甘えること。

 

ハートを開いて、お願いすること。

 

 

「ここができないんだよ。助けてくれる?」

 

「なんだか疲れちゃった。甘えてもいい?」

 

「ここは苦手なんだよね。手伝ってくれる?」

 

 

そう、「美しく甘える」とは「弱みを見せる」ことなんだ。

 

 

自立していない人ほど、「弱みを見せる」ことができない。

 

「自分でやる」という。

 

「自分でできる」という。

 

「助けてもらうのは恥ずかしい」と思う。

 

 

それは自立じゃなくて傲慢なんだ。

 

 

 

うちの子どもたちは、なんでも自分でやりたがる。

 

 

「じぶんで、ごはん、はこぶ!」

 

「たまご、まぜたい!」

 

「じぶんで、ようふくのボタン、できる!」

 

 

自分でできないことさえも、自分でやろうとする。

 

自立する心の表れだ。

 

 

で、「自立する心」が出てくるってことは、依存してるってことなのよ。

 

 

そう、ぶっちゃけ子どもは自分で何にもできない。

 

「できる気」になっているだけだ。

 

ハミガキもウンチも一人でできるよ!ってだから何なんだ。

 

お前ら、1週間ほったらかしにしたら、絶対死ぬやろ!!

 

 

で、それはオトナも同じだということ。

 

「自分でやる!」「自分でできる!」は、依存状態の人が思うことなんだ。

 

 

で、そこから脱して自立してくると、はじめてそこで「助け合い」という観点が出てくる。

 

 

「おれは、ここまでできるゾ!お前はどうなんだ?」

 

「なに?そこまでできるなんて!負けた…」

 

「それくらい自分でやれよ!おれは自分でやったんだから…」

 

 

そういった子供じみた世界から抜け出してこそ、「相互扶助」の「愉しい依存」の世界にシフトできる。

 

 

ぼくはずっと、強がってきた。

 

自分である程度、なんでもできてしまった。

 

そこに、落とし穴があった。

 

 

「自分でできる」なんて、ハンパない誤解だったんだ。

 

「自分でやるしかない」なんて、勘違いだったんだ。

 

「自分でやろうとする」から、誰も助けてくれなくて、さみしかったんだ。

 

 

もう降参するよ。

 

どうあがいたって、一人じゃできないのよ。

 

っていうか、一人じゃ愉しくないよ。

 

 

一人はさみしいよ。

 

 

だから、お願いします。

 

 

一緒に「ハラ生き」の世界にシフトして遊びませんか?

 

 

興味ある人は、なんかのタイミングで、ぜひおぜっきーに会いに来てほしいな。