「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

成長という観点をなくしてみると、新しいことが見えてくる。

「成長」というのは、「愉しいあり方」を求めていくのに、落とし穴になりやすいポイントです。

 

 

「成長」という観点は、実はエゴ的なものなのです。

 

 

正確にいえば「成長しよう」という意図は余計なのです。

 

 

なぜなら「成長」は「勝手に起こる」ものだからです。

 

 

 

赤ちゃんは成長しようなんて思っていません。

 

子どもは遊んでいるだけで、「昨日よりも今日、今日よりも明日」なんて考えてません。

 

植物も動物も目標を立てたり、「こんな私になりたい」とは考えません。

 

 

それでも勝手に成長します。

 

 

 

「成長」というのは「遊び」の結果として「起こる」ものであって、「しよう」と頑張るものではありません。

 

 

 

「成長したい」という欲求の中には、「自分は未熟である。だからダメである」という否定が隠されています。

 

 

 

けれどもぼくらは、すでに完成品なのです。

 

 

どこも欠けていないのです。

 

 

欠けていないものが、どうして成長する必要があるでしょうか。

 

 

 

「できないことができるようになる」ということを「成長」と捉えることには、非常な危険が潜んでいるとぼくは考えます。

 

 

「できないことができるようになる」ということは、実はたいして価値のあることではありません。

 

 

できてもできなくても、人の価値は変わらないのです。

 

 

 

「できなかったことが、できるようになった」人は、他人にも同じように「あなたならできる!」と押し付けることがあります。

 

 

けれども、ぼくらは「できないこと」のほうが圧倒的に多いのです。

 

 

たしかに、がんばって「できないこと」が「できること」に変わることはあります。

 

 

それはそれで悪くない。

 

 

けれどもそこに、「できない自分はダメ」で「できる自分はOK」というとらえ方があるのなら、「できる自分」になった時点で、「できない自分はダメ」という思い込みを抱えてしまうのです。

 

 

すると、「できないアイツはダメ」というふうに自然に思います。

 

 

だって「できない自分はダメ」なんだから。

 

 

 

人間は、「自分に厳しく、他人に優しく」なんて芸当ができるようにはできていません。

 

 

 

自分に採用している法則を、かならず他人にも採用し、他人に採用している法則をかならず自分にも採用します。

 

 

だったら「できない自分もOK」

 

だから「できないアイツもOK」

 

お互いさまだよね。

 

 

くらいのほうが確実にラクなんですね。

 

 

 

どうですか、この考え方。

 

 

努力したって、「いい人間」になんかなれっこない。

 

むしろ「いい人間」を目指せば目指すほど、自分も周りも苦しくなるのではないでしょうか。

 

 

 

まぁ、いろんな意見があってしかるべしだと思いますが、「成長なんてない」って考え方をしてみると、けっこうラクになりますよとお伝えしておきます。