「ハラ生き道」

「からだの軸」が整えば、「じぶんの本質」につながれる。

「分かった!」という危険。~モヤモヤ保持力を高めよ~

「スッキリしたい」

 

これって結構アタマの欲求だったりするんだよね。

 

 

なんだかモヤモヤする。

 

アタマはどうしてもその曇りを晴らしたい。

 

 

でもハラ的には、そのモヤモヤが「ベストコンディション」だったりする。

 

 

「エウレカ!(わかったぞ!)」

 

という気づきは、何者にも代えがたい喜びです。

 

 

けれども大抵、その「わかった」は「わかっていない」のうちの「わかった」で、その答えにしがみついていると、次の階段でつまづきます。

 

 

なぜならそもそも、ぼくら人間が、たとえば宇宙のことを「わかる」はずはないのです。

 

だから大前提に「わからない」がある。

 

 

 

生きるということは、いつでも一期一会で。

 

同じ瞬間は2度と訪れない。

 

 

だからこそ、アドリブ、臨機応援、当意即妙、出まかせ、その場しのぎ、とっさの機転、ということが大切になってくる。

 

そのために、もっとも大切なことは何か。

 

 

それは脱力であり、思考しないことであり、感じることであり、じぶんをなくすことだ。

 

 

たとえばハラ生き道6か月コースハラ塾の卒業試験は、こんな感じで「カラダのアドリブ力」を試される。

 

 

次々とやってくる相手は、どんな攻撃をしかけてくるか分からない。

 

それを力を抜いて、軸を立て、からだの緊張を解きながら対応していく。

 

 

 

ここには「安心」というのはない。

 

次はこうきて、そのあとこうきて、最後にこうなる。

 

みたいな未来予想図が描けない。

 

 

ぜんぶ、今、今、今。

 

さっき投げた人のことも考えていられない。

 

次に来る人のことも考えていられない。

 

 

思考を止めて、目の前の人と調和していくしかない。

 

 

ぼくは、「生きる」ということは、こういうことだと思うのです。

 

 

いつ何が起こるか分からない。

 

 

それは不安だけれども、「こうなるだろう」と予想を立てるほうが、もっと危険なことなんだと。

 

どんな攻撃をしかけてくるか分からない。

 

「たぶんパンチだろう」なんて思考していてキックが来たら対応できない。

 

 

だからいつでも「未来はわからない」という”てい”で、構えを解いておく。

 

何にでも対応できるようにしておく。

 

 

それがつまり「モヤモヤしてる」ってことだと思うんだ。

 

 

だから「モヤモヤしてる」ってのは、ある意味とても健康なことで。

 

むしろ「スッキリしている」ほうが誤解で。

 

 

この未知に満ちた道が、「スッキリしている」わけはないんだ。

 

 

いつでもモヤモヤしていて。

 

つまり未来は不確定で。

 

 

対応していても、それが最善か最悪かもわからなくて。

 

 

 

泥臭く、不器用に、下手くそに。

 

「これでいいのかな?これでよかったのかな?」

 

なんて、己に問いながら。

 

そして、ときに美しく後悔しながら。

 

 

答えのない世界を、一歩一歩ふみしめて、頼りなく、誰かに助けられながら、生きていくしかないのかなと思うのです。