特殊な人生じゃなくていい。俺なりの「ふつうの人生」を歩んでいこう。
こないだ、ある人の伝記みたいな本を読んでいて気が付いた。
「あ、俺、誰かみたいになりたいっていう欲がなくなった」
と。
ずっと、すごい人、一流の人になりたくて、努力していた。
けれども、なかなか「スゴイ人」にはなれなくて、「スゴイ人」の本を読むたびに、
「やっぱり、こういうふうに生きたほうがいいのかなぁ」
「すごいなぁ。マネできないなぁ。俺はダメだなぁ」
「俺の生き方は、どこかニセモノだなぁ」
と感じてきた。
それがこないだ「すごい人」の話を読んだときは、「へー、そういう生き方もあるんですね」と憧れがまったくなくなっていた。
これには、自分でも驚いた。
あれだけ、いろんな「遠くの人」を尊崇してきたぼくが、「すごい人」の人生にビビらなくなったのだ。
そして、「あの人はあの人。おれはおれ。」とどっしりと感じた。
いったい、いつのまにそんなふうに変化したんだろう。
正直、自分でも分からない。
ハラ生き道をある程度、体系化し、それを実践してきたからには違いないが、はっきりしたところは分からない。
知らぬ間に「べし、べからず」ではなく「やりたい、やりたくない」の世界に入っていたようだ。
どんなに厳しい修行を積んだ人がいても
「それをやりたくてやったんですよね?ぼくは嫌です」
と思える。
以前だったら、厳しい修行を積んできた人に対しては萎縮してしまっていた。
相手は「厳しい修行」で鍛えられているからホンモノ。
こちらは、甘っちょろい世界しか知らないからマガイモノ。
そんなふうに捉えていた。
けれども、そんな捉え方こそがマガイモノのあり方だったのだ。
修業なんかでは、人の価値は変わらない。
きたえて「スゴイ人」になっても、価値は高まらない。
「人並はずれた能力や実績」も、別にどうでもいい。
そんなことよりも、その人が「じぶんの本質」どおり生きているか。
そこだけが、ぼくの焦点だ。
それはつまり、その人にとっての「ふつうの人生」を歩んでいるかということ。
誰かと比べて量が多いとか、数がどうだとか、そういうことじゃない。
自分にとっての「ふつう」を極めるということ。
これが「気持ちよさ」の基準なんだ。
そのためには「問い続ける」ことがもっとも大切だと思う。
きっと「じぶんの本質」に沿って生きるということに、答えなんてない。
なぜなら、刻一刻と「じぶん」は変化していくから。(なぜなら、「じぶん」とは他人じゃないものと定義されるから)
ということは、唯一の解は
「問い続けること」
だけなんだと思う。
「問い続けること」によってのみ、ぼくらはぼくらでいられる。
「じぶんの本質」につながっていられる。
だから「じぶんの本質」につながったかどうか、ゼロサムで考えなくていい。
誰しもがつながっているし、誰もがつながっていない。
「いったい自分はどうありたいのか?」
それを問うことじたいが、すでに目的のひとつだったりする。
そして、その問いが忙しければ忙しいほど、「誰かに憧れる」というヒマはなくなってしまうんだ。
「あんなふうになりたい」
「あーゆー努力をしなければ」
「もっと〇〇じゃなきゃ」
全部、「自分らしくあること」を否定した瞬間に出てくる思い込みだ。
「じぶんの本質」とつながり、自分らしく生きることは怖いことだ。
ついついどこかで
「こんなんでいいのかな?」
「さすがにこれはダメじゃないかな?」
「このままでは、ダメなんだろうなぁ」
とビクビクしてしまう。
「生き方に答えなんてない」と知りながら、どこかに正解を求めたくなってしまうんだ。
だけど、もういいかなって思う。
おぜっきー流でいけばいいやって。
もちろん他の人のを参考にさせてはもらうけど(おれ、パクりの天才やねん)、最終的には「これ!」と思ったものを貫くしかない。
それが「美学」になっていくんだよね。
だからさらにさらに、じぶんの「持ち味」を追求していきたいと思うよ。